SSブログ

そういえば昔、派遣労働者だったなあ、オレ [徒然なるまま]

 

1990年代前半。私は30代前半だった。
バブルの余波でCMの仕事が増えて給与も多少上がり、何となく順調に思えていた時期もあったが、それも2年程度で終息。
やがて仕事の数が激減し始める。
私がかつて生業にしていたのはシンセのプログラマーという仕事だった。ある意味で、この仕事も派遣労働者と云える。
この仕事はアレンジャーやミュージシャンから指名を受けてレコーディングスタジオで音色作成や音楽用のプログラムを書いてレコーディングに寄与する仕事だ。
しかしバブル崩壊後、私の実力のなさもおおいにあるのだが、仕事に先行きに限界を感じ、CM作家仕事や作・編曲仕事などに幅を広げ始めている時期でもあった。

私に限らず売れないミュージシャンの連中もバブルの後遺症に苛まれていた。
そんな中に出てきたのは通信カラオケバブルだった。当時のカラオケの主流はP社が開発したレーザーディスクを利用したカラオケだったが、MIDI(ミディ)という規格で音源に情報を送ってコントロールできる新しいタイプが出現し始めた。つまりMIDI規格で音楽情報を作る仕事が激増したのだ。
MIDI
と云うと一般には馴染みがないが、音符の情報を一定規格に基づいてPCが読めるように書き換える仕様をいう。
例えば、1小節の時間軸が「192」という数値に決めてあるので、四分音符は48と書くみたいな事だ。ここだけ読むと難しそうだが、既にこうした情報を音楽的な手法を利用して書き換えてくれる便利なソフトがあったので、ミュージシャンの連中やシンセのプログラマーには一般的だった。

 

通信カラオケバブルはそうした音楽業界の落ちこぼれ連中の食いぶちになった。
当時の心境を振り返えると、格下仕事(通信カラオケ業界の人には申し訳ないがそういう当時そういった気持ちがあったのは事実)をしてでも食いつながなければならない自分の不甲斐なさが未だに心の奥底に大きな染みを残している。
各社がMIDI音源を利用したカラオケシステムに移行する中、MIDI音源用のデータ制作者が不足し、バブル化し始める。
音楽業界で制作会社をやっているような所が次々と参入し、大手から受注を受け、人脈を駆使してMIDI音源用のデータ制作を始めたのだ。

フリーランスとは仕事がなければ無職同然だ。何もしなければ1円にもならない。従って私もスタジオ等のメイン業務がない時間にMIDI音源データ制作を始める。

私は個人的にいくつかの会社から受注していたのだが、だいたい1曲のデータを作って納品すると3-4万円程度だった。制作会社から連絡があると指定曲から選び、その音源のCDを借り、耳を使って楽曲に録音されている楽器演奏をMIDIデータに書き換えるというのが主な作業だ。譜面を渡されることはほとんどないので、コード進行、楽器構成、楽器演奏など耳を頼りに聞き分けてデータで再現するわけだ。早い連中だと1曲を2日程度で仕上げていたらしいが、こうした連中は演歌系を選んでいたらしい。演歌は生の弦楽器が入っていて複雑そうに思えるのだが、オーケストレーションには一定のパターンがあるので慣れた人なら解析が楽なのと、ダビングされている楽器がポップミュージックに比べて少ない事もあった。

いずれにしてもストレスの溜まる仕事だった。10曲程度やらないとサラリーマンの給与にもならない。しかし10曲も受注する枠がなかったのと、仮に10曲もやっていたら廃人になっていたかもしれない。私にはその位空しい業務だった。

ある日、友人からカラオケ業務をやっている会社で人を捜しているので会わないか?と連絡が来る。話を聞いてみると、パイオニアの子会社のQ社という会社が新しい通信カラオケシステムを作るため大量の音源が必要だが、そのデータを音楽的に確認する人間を募集しているという。
レコーディングの仕事がほとんど無くなっていた当時の私は比較的割のいい固定給にも魅了され受託する。そうなのだ。私は派遣社員になったのだ。
私がこの仕事を受託していたのは1994年の下期から19952月位までだったろう。

業務場所は乃木坂に近い赤坂にあるQ社内の仮設スタジオだ。防音されており、私と同じ会社から派遣されていた男性の二名で業務に対応。

実は私を含めた二名の派遣元の会社の社長は、過去に数曲のヒット曲を持った人物で、ギターリストでもある。いつもベルサーチを着込みポルシェに乗っていた。派手好きでそれを他人に強調したいようなタイプの人物だったのだろう。

彼は親分肌で面倒見の良い人物だった。ただ私は人間関係に距離を置きたがる人間だったので湿的な関係を求めがちの彼にとって付き合いづらい人間だったろうと思う。
もう一人の派遣男性は彼の舎弟のような関係だったので、彼を慕っており業務後毎日彼の事務所に行ってから帰宅していたようだが、私は週に1度か2度程度しか寄らないのでカワイイ奴に思われていなかったろう。
実を云うと私は社長の直下で働いていた男性のAが生理的に嫌いだったから行きたくなかっただけなのだが。

Q
社での仕事は本当に食うためだけだった。未来のキャリアに有用とか何とかは考える余裕もなかった。34歳まで自分なりに積み重ねてきたキャリアに陰りが出てきていた私は人生の路線変更を余儀なくされていたのだが、この時期は本当に辛い時代だった。
Q
社では毎日10時からスタジオでデータの検品をし、委託業者にコメントをしたり多少自分でデータを直したりして完成させたりする日々が続く。半年近くやっていて感動するほどよく出来ていたデータは数曲だった。ほとんどは素人に毛が生えた程度でも良い方で、中には音楽として成立していないデータも多かった。耳で聞き取って想像や技量でデータを構築するのは確かに難しい作業だが、能力にこれだけ差があるのは客観的に見ていても興味深かった。

1995
117日早朝、私は東芝EMIからCDとして発売される某歌手の楽曲のアレンジ仕事を築地のスタジオで終える。私のキャリアではメジャーレーベルからの発売されるCDのアレンジ仕事はこれが最後となっている。
徹夜でレコーディングを終え、朝日を浴びながらの帰宅の途上、NHKのラジオから神戸地方で地震があったと伝えていた。そう、阪神淡路大震災だ。
当時のラジオの口調は大地震のような感じに受け取れなかった。私は自宅に帰ってシャワーを浴びてQ社に出勤するまでの数時間の仮眠をする。

寝ていた私を起こしたのは自宅の電話だ。受話器を取ると相手は英語で捲し立てている。そう、私のかつての同居人がロスから電話をしてきたのだった。

“高速道路がひっくり返っている、東京は大丈夫か?”

何を云っているのか理解できず、テレビをつけてみると、後に代表的な映像となる高速道路倒壊の状況が目に飛び込んで来た。
私が大震災を実感したのはこの時だった。
その日はQ社に行っても仕事に全く身が入らなかった。道の反対側の電気屋に置かれているテレビを見ると犠牲者の数が分単位で増加している。その日の夕方には公式死者数のが3,000人を超えていた。この日はそういう日だった。

Q
社は当面の楽曲を15,000曲程度と設定していたが、検品の質が低いために作業が遅延して目標に届かない恐れが出て来た。そして1月中旬以降からは検品精度を落としても楽曲数の達成をしたいという通達があり、それに従う。そのため初期に作られた楽曲のかなりの数は出来としは素人作業がそのまま流通している。

1995
2月末でQ社の作業は終わったと記憶している。その後ベルサーチ氏からもらうカラオケ関係の仕事をしていたのだが、納品データの出来で男性のAとの間で意見が合わず、疎遠になり始めていた。それでも面倒見の良いベルサーチ氏は私に対して自身が計画しているレコーディングスタジオのシンセプログラマーを担ってほしいなどの別の案を提示してくれていた。
結果的に私は第二の派遣業務を請け負う事になった。YAMAHA浜松工場に行ってシンセ開発部で行っている新作機器のバグ出しだ。かつての同僚もここで仕事をしていた記憶がある。
私は東京に住んでいるので平日の5日間、浜松のホテル住まいをし、YAMAHA浜松工場に通うという生活を始めた。交通費・宿泊費は別途出る。
我ながら落ちる所まで落ちた感があり心の奥底では悲哀が漂っていた。ドサ廻りの演歌歌手ってこんな感じかもしれない。
工場の近所のワシントンホテルからYAMAHA浜松工場に830分までに行き、17時まで決められた部屋に12人ほどが押し込められ、1日中、様々な方法でシンセを操作しバグを出すことばかりやっていた。ここに来ていた連中はそれぞれに事情を抱えていた。それぞれが全て腹の中を晒していた訳ではないが、それぞれに痛みを持つ人間ばかりに思えた。
ある意味夢破れた系の落ち零れの集団の中に私は仲間入りしていた。

人生で工場勤務は初めてだった。12時になるとサイレンがなり、工場内の食堂に溢れんばかりの人が集まり同じような食事をする。同じ制服を着ている集団は圧倒的だが異様とも云えた。そして17時にサイレンが鳴り全員退社。
私はチャップリン映画の“モダン・タイムス”を思い出した。物作りの現場の殺伐とした一面を見た気がして私は随分と遠い世界に来てしまったことに茫然としていた。

17
時を過ぎると時間通りに退社。ホテルの途中にある弁当屋で弁当を買って帰って部屋でテレビを見ながら夕食というのが日常化した。
そんな自分の未来に漠然とした不安があったのは云うまでもない。
ある日、オリックスと西武戦がホテルのテレビで放映されていた。しばらくして何気なくホテルのロビーに降りるとそこは試合直後のオリックスの選手で一杯だった。私は部屋に戻るためエレベーターに乗ったのだが、そこに選手が入ってきた。その中にイチロー選手がいた。華奢に見えたが紛れもなくスターの貫録だった。

当時の1か月のギャラは40万円だった。悪くなかった。
しかし食うためだけにやっていたとは言え、余りにも遣り甲斐のない仕事だったこともありたった2カ月やってこの派遣業務を断った。
ベルサーチ氏から今後の仕事は直接YAMAHAと契約して欲しいと云われた事も辞めるキッカケの1つだった。

ベルサーチ氏も私も互いにそろそろという時期だったということだ。

そのため5月・6月と仕事が全く無かった。35歳にもなってこんなザマかよと本当に辛い時期だった。自分の人生の積み上げの失敗を呪ったものだ。
6
月は遂にやることがなくてお歳暮のバイトを始めた。1か月やって20万円にもならなかった。
しかし宅配の業務の大変さと凄さを実感できて彼らへの見る目が変わった。今でも宅配の方々には尊敬の念で荷物を受け取っている。

1995
8月、私は人脈のお陰で某大手芸能プロダクションにマネージャー業務をするために入社する。契約社員だったが、それまでの知識、経験を生かせる場所だった。私は安堵感に満たされその後4年をこの会社で過ごす。

私は現在正社員として全く違う分野である某社に勤務している。40歳を過ぎて正社員になり役職も就いた自分に驚いてもいる。
現在の自分の部署に派遣社員も抱えている。しかし私個人は派遣という制度が大嫌いだ。自分の経験を踏まえても、本来派遣待遇で良いという人は少数派だろう。
正社員の自分と比較しても待遇は天と地ほど違う。ボーナス、社会保障、健康保険など言い出したら切りがない。正社員が身分化していると指摘する人がいるが、ある意味それは正しいと感じている。

派遣社員制度は企業に都合がいい。人的コスト削減に最大の効果がある。その効果の反対側にいるのは派遣社員たちだ。
企業が労働者をコストと考えているだろうが、本来は誤りだ。そういう側面が無いとは云わないが本来的な社会思想としては誤りだ。
そういう事を是とする社会構造はいずれツケを払わされる。
効率の先にある非効率を無視すれば、想像を超える不利益に遭遇するだろう。

私は自分自身が派遣労働者を経験し、また雇用する立場になり、世の中の歪に胸が痛くなり、また焦燥感に苛まれるのだ。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

法務部の所作で分かる仕事の出来ない法務社員の有無 [徒然なるまま]

00-106[1].jpg

他社と契約を交わしているとその会社の人材の力量や考え方が伝わる気がする。中にはこちらが心配な位にシンプルな契約書もあれば、シンプルだが、実用的で要点をしっかり押さえたものもあり勉強になる。また大した内容でもないのに信じられないような複線を張り巡らした契約書にも出会う。
ウチの法務部ではないのだが、過去に締結済みの契約書の案件部分だけを差し変えて同じ条件で締結する時に、意気揚々と修正を入れて悦に入る馬鹿法務社員も出会ったこともあった。
多分その人は、かなり仕事が暇だったのだろう。

前回と契約条件が同じで案件だけが変わり、過去に法務部が了とした契約書に改めて修正を入れる根拠を担当者に正すと案件が変わったからだと嘯く。
こういう法務部の担当者は、自分が関所に立っているだけじゃ満足できなくて、何かをやらないと気が済まないお馬鹿役人と同じ発想の連中なのだ。
エネルギーを使う場所を完全に履き違えていることに気がつかない。
私の田舎ではこういう連中を“利口バカ”と呼んでいる。

全く同じ契約条件で案件内容だけが違うなら、記述ミス等のチェックをすればそれで終わりだ。
WORDなら文書比較機能がついているので数分で終わる作業だ。それに不要な修正を入れたがる法務部の担当者は、自分の仕事の指紋を残さないと気が済まないのだろうが、こういう無駄な行為をする奴を社会では仕事の出来ない奴という。

また他社から来たひな形に全部赤い墨を入れて、ほとんどすべて書き換えて送り返すようなツワモノもいたが、こうしう失礼な事をしても、自分は正しい仕事をしているのだと勘違いしているような社会性のない人材がいたりする。こうなると法務部とか事業部とかの問題ではなく、社会人としての適性に疑問がある。ちなみにその人間は退社した。

会社にもよるが法務部は様々な案件を大量に処理している。そういう意味では、重要案件こそエネルギーを注ぐべきで、同じような契約案件は内容に齟齬のない限り事務的に済ませないと仕事の処理が追いつかない。
こういう輩は仕事の重要度に順番を付けられないのだろう。上司の教育程度が分かるというものだ。

 日本の契約書は特にアメリカと比べると薄くて内容もシンプルだ。アメリカ人には信じられないだろうが、日本の契約書には契約書で取り決めていない事項については誠心誠意相方で話し合い解決をするという精神条項がある。
契約書の趣旨からすると精神条項は無意味である。そういう事態を回避するために契約書を交わすからだ。
それ故アメリカの契約書は、守るべき条件を相方すべて書きつくすために分厚くなり、複線も多いため弁護士の介在が必要となる。
それはそれで彼らの社会では正しい方法なのだろうが、複雑な契約文面を延々と書かないと双方納得できない社会の在り方も考えものだ。

それ故、日本国内の企業や個人ではアメリカ型の契約書が馴染まない場合が多い。アメリカ型か日本型の善し悪しの是非はともかく、国内で利用する契約書は最低限度の合意事項の記載で概ね業務に支障がない。
もちろん全部の条件を仔細に書ける相手なら書きつくすのも良いと思う。
しかしそうした方法に馴染んでいない相手が多い日本の場合、どうしても曖昧さを残した契約書になる。そのため努力・精神条項が含まれるが、こうした条項の実効性は全くないのが本来の契約書の世界だ。海外との契約ではこうした曖昧さは命取りになる場合もあり、こうしたリスクヘッジこそは法務部の腕の見せ所なのだ。

法務部にいる人間は、曖昧さを嫌う。それは彼らの業務指向性だから致し方ない。そのため日常は使わない言葉を延々と繰り出す。
契約書は書き留めた文書だけが頼りの綱の世界であるため、リスクヘッジとして自分側に不利にならないよう文章を徹底的に極めておくのは絶対必要な事であることは疑いない。しかしその方法論に相手先への敵愾心を入れ込む輩が居る場合は論外だ。

しかし法務部にいる人間で仕事の出来ない奴に多いのは、簡単な内容をことさらに複雑に記載する奴、もしくは条項間に渡る複線を山ほど張って相手を煙に巻くような契約書を作る輩だ。
どうしても契約書をやっていると相手より有利になろうとする心理が働くため、条項間に言葉の地雷を仕掛けようとする奴がいる。
素直な文章や簡単な構造にすると法務社員としてバカにされそうだと勘違いしているのだろう。実は簡単で構造で効果的な文章によって契約書を構成する事ほど高い能力が必要なのだが、それに気がつかない人間が如何に多いか。
美的な契約書は論理的で理路整然としており、シンプルで効果的だ。
過度に複雑で、不要に解釈を困難にさせる要素を持ち込むのは、契約書の本来趣旨ではなかろう。
実はこの契約書は、本当こうやって読む内容なんですよ・・という契約書面は、実に人を馬鹿にした行為だと思われませんか?
それともそれを読み下せない方の能力不足を嘲笑いますか?

法律用語は、民法や刑法に限らず未だに明治以来の成立文章を採用しているため、法律関係者が繰り出す文章は、非日常的であっても良く、それを読み解けるのは一部の人間に限られているから価値があるのだという幻想がある。
契約書において、独特な表現が存在し、最低限の引用が必要であることは否定しないが、本来は、誤解釈を避けられる範囲で平易文であるべきだ。契約書はだいたいにおいて、日常の中に普通に存在するもので、弁護士や特定の職種の人種のために存在している物じゃない。

これは法律関係の文章を扱う法務部の人間の根底には、自分たちが他の人間に比べた頭脳構造について優位性があると勘違いしており、誤ったエリート意識が根底にあるのだろうとかと推察してしまう。
それ故自分がどれだけ難しい文章と構図を読み解けるかという点で競争し始めるため、簡単な事をことさらに複雑化することに快感を持ち、エネルギーを注ぐのだろう。

それ故、多数条項間に言葉の複線を張り巡らして、各条項間を繋いで読み解さないと1つの解釈に到達出来ないようなタイプの契約書を作ったりする輩が出て、仕舞いには自分の作品の如く誤解し始める。
こういう仕掛けを張り巡らせた契約書を作る法務部の人間は、自己満足と達成感で一杯になるだろう。しかしこういう人間に限って、数年後にその契約書を読んだ時に、自分で作った罠にさえも気がつかなくなってしまう輩なのだ。

取引上の業務として契約書を担当している現場の人間はかなり多いだろうが、取引先をワナに嵌めることを是とするような法務部担当者を持つ会社とは付き合わない方が無難だ。
契約書は相手を嵌めるために作るのが目的ではなく、同意事項をお互いに履行するための一定の根拠として文章化するのが目的だからだ。

自社の法務部で複雑な文章の罠を作って悦に入っている社員がいたら直ぐ配置変をすべきだろう。またそれを認めている上司がいたら、その人間も同罪だ。

こういう人材を法務部に抱えると、社内の法務部担当者相手に契約作業を進める上でもめる事が多くなる。上記のような誤った指向で契約書を作ろうとする人間がいるために他ならない。それは会社の業務を円滑に進める上でリスクになるし、無駄でもある。
また契約書の文言を自分の琴線に触れるまで変える馬鹿もさっさと配置転換した方がいい。

先ほども述べたが、契約書は文学作品じゃないのだ。

新しい取引先との間で他社と同様の内容の契約書を作る際、他社間で締結済みの契約書をひな型にして書き換えようとしたら大騒ぎした法務担当者がいた。
法務部担当者は新規の会社との間ではオリジナルの内容で作るべきだと主張するのである。また契約書の流用行為は守秘義務に違反するともいう。何となく一理はありそうだが本当にそうだろうか?

例えば、音楽業界なんかでは、アーティストのレコード契約や出版契約を締結する際、過去に他社間で締結したひな型を流用させ、金銭面と特記事項だけを書き換えることが多い。出版契約であれば業界での統一的なひな形すらある。
しかし考えてみればこれは当たり前なのだ。
契約趣旨や構造がほとんど同じだからだ。
そのためこの業界ではアーティスト別に一から新たな契約書を書く起こす奴なんていない。
こうした契約書で一番のポイントは金銭面や待遇面であり、それに付帯する特記事項だけが契約書の最大のポイントだ。
それ故他の部分が全く同じでも契約書上は特に問題ないし、流用は守秘義務にも違反しない。これを守秘義務違反と言ったら、不動産の賃貸契約なんて全部主義義務違反になってしまう。

騒ぎ出した法務担当者の気持ちは理解できないでもないが、実務面では全く無意味な反抗なのだ。そもそも守秘義務があるので、その契約書が他の契約書をひな型にして作った事なんぞは担当以外知りようがない。もちろん相手がひな型となった契約先の会社と同じような内容で別の案件の締結している可能性が排除できない場合は別だが、そうしたリスクを排除できれば締結済みの契約書をひな型にして書き換えることは実務上、何の問題もない。


日本では法廷闘争になった時、訴訟活動を担保出来る最低限度の記載があれば日本の契約書は概ね実効性を持つ。仔細微細の話になれば、いずれにしても法廷闘争になって決着を必要とするのは古今東西変わらない。昔、ソニーミュージックが鈴木あみとの間で法廷闘争になったが、あの論争部分を契約書当初に書いて果たして鈴木あみ側が理解した上でサインしたかどうかは怪しいものである。ソニーミュージックは業界内でもかなり厳しい契約書を作るので有名だがそれでもこうした事態は起こる時は起こるのだ。

国内での契約の際、リスクヘッジと称して聞いたこともないような言葉を延々と紡ぎ出す契約書面を作る輩がいるが、そもそもそこまでしなければ契約出来ないような相手とは最初から取引しない方がましだ。
それでも取引を必要とするならば、どんな契約書を作ろうが、トラブルは避けられない可能性があることを肝に銘じておくべきだろう。

本当は契約書なんて作らなくてもキチンと取引出来る相手が一番良いのだ。
結局日本は、取引相手との間で。延々とトラブル続きだった西洋文明の影響で仔細微細な記載のある契約書を残すという方法を編み出し、最初に決めたら書面通りに守るという彼らのやり方に毒され過ぎなだけなのだ。

契約書を交わしたって逃げちゃい奴は逃げちゃうし、法廷闘争まで争って得られる対価は、その過程で失うものより大きい場合だってある。

そのため契約書にかける時間とエネルギーが、何を目的にし、何を得ようとしているのは、もう少し俯瞰して見る必要があるのではなかろうか?

最後に一言。契約書には著作権がありません。

以上。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

強羅~大湧谷へ駆け足旅行に行ってみた 2012年11月25日 [徒然なるまま]

121125小田原-強羅NXCAM (2)_R.JPG

強羅に方面に紅葉を見ようと出かける。この方面に行くのは24-5年ぶりか。どうやって行くのかもよく分からないが、小田原から箱根登山鉄道で強羅まで行ける事は確認し、あとは現地で決めることにして自宅を7時に出発。

都内からここへ行く人へのアドバイス:

(1)もし行く計画があって可能ならば、出来るだけ平日に行くのがいい。休日はご存知のように待ち時間が計算できず、どうしても時間をロスしてしまう。

(2)出来れば一泊した方がいい。見る場所が満載でとても見きれない。

(3)行動は出来る限り朝早くから行った方がいい。休日は昼頃からは大変に混雑して待ち時間が無駄になる。また特に秋の15時以降は結構寒いのと日没も早いため活動時間に制限がある。

(4)見るべき場所は事前に調べて絞っておいた方がいい。

(5)週末の天気の良い日の車での移動は避けた方が無難。渋滞でつぶれる時間がもったいない。

(6)可能なら昼飯は持参した方が無難。

さて、小田原駅から箱根登山鉄道で一路箱根湯本へ。約15分程度で到着する距離だ。箱根湯本からは別の箱根登山鉄道に乗り換え。同じホーム上にあった。
箱根湯本から強羅までは約45分程度。箱根登山鉄道は急峻な坂を上る。さてこの列車の車掌さんはひょうきんな人だった。例の車掌口調なのだが、移動中ずっと観光案内をしゃべり倒してくれる。余りに面白いので車内は苦笑・爆笑の嵐であった。写真の男性、落合さんというのだが、登山電車でこの人に当たったら結構楽しめます。このブログのプログラムのエラーだと思うが、元の写真はなんともないが、何度アップしても写真が縦長になってしまうがご容赦を

121125小田原-強羅NXCAM (13)_R.JPG

多分名物車掌の落合さん 


車内では、私の直ぐ隣に幼稚で子供が甘えたような声で一々車掌の解説に反応して彼氏に声をかける若い女性がいて大変に耳触りだった事だけが不運だった。
人には個性があるのでなんなのだが、公衆の面前と自宅の済み分けの出来ないのは、やっぱりちょっと品が無く見えるなあと思った。私は40分程度我慢していれば過ぎ去る事なので知らないふりをしていた。しかし人の振り見て我が振りをなんとやらでもある。

121125早雲山-大湧谷NX (6)_R.JPG


強羅からケーブルカーで早雲山まで行けるようなので、20分程度待って乗る。早雲山からはケーブルカーが大湧谷まで行っており、ここまで来たら乗るか・・ということで約30分程度待って乗る。休日は待ち時間が多い。

121125早雲山-大湧谷NX (11)_R.JPG

車窓からの光景

121125早雲山-大湧谷NX (60)_R.JPG

車窓からの光景

121125早雲山-大湧谷NIKON (25)_R.JPG

車窓からの光景


大湧谷までの行程は、ご存じの方も多いだろうがスリリングだ。また周囲の紅葉はピークを若干過ぎていたが、山々を覆う色合いは美しく楽しめた。
山肌からそこここで蒸気が噴き出す大湧谷で下車。

121125早雲山-大湧谷NIKON (34)_R.JPG


以前来た時はどこに行ったやら? ほとんど記憶がないので、初めて来たような感じでしばし周辺を散策。鼻を突く臭いがするが、それもここの特徴。

121125早雲山-大湧谷NX (25)_R.JPG

しかし凄い光景だ。山の上部が白いのは雪だろう。
富士山も冠雪した様子が山頂付近が見えており絶景だ。

121125早雲山-大湧谷NX (42)_R.JPG

大湧谷にはレストラン、軽食、温泉タマゴ、遊歩道コースなどがある。ここからは富士山も真正面に見える。大湧谷には撮影ポイントも多く、温泉タマゴも買える。

121125早雲山-大湧谷NX (37)_R.JPG

観光スポット。目の前でモクモクしている。


121125早雲山-大湧谷NIKON (16)_R.JPG

煙で蒸せる人もいるがそれも魅力。


121125早雲山-大湧谷NIKON (19)_R.JPG

こんなのも売っている。


121125早雲山-大湧谷NX (64)_R.JPG


ロープウェイの早雲山駅で下車。周辺を歩いてみるが、風景を楽しんで強羅に降りる。

121125早雲山-大湧谷NX (69)_R.JPG

ケーブルカーは必至に登る



強羅について公園坂を上がり、強羅公園に行く。

強羅公園は結構な広さの公園で入場料は500円。電車の時間の関係でクイックツアーをしてみたが、それでも見きれなかった。


121125強羅公園NXCAM (38)_R.JPG

公園へ向かう公園坂。坂を登って左に40m程度で強羅公園の入口。


121125強羅公園NXCAM (32)_R.JPG

公園の入口


121125強羅公園NXCAM (31)_R.JPG

案内盤


121125強羅公園NXCAM (16)_R.JPG

最後の紅葉がきれいだった


121125強羅公園NXCAM (13)_R.JPG
121125強羅公園NXCAM (30)_R.JPG

噴水がオシャレ


121125強羅公園NXCAM (26)_R.JPG

ヒマラヤ杉が有名だそうです


強羅ももう少し時間の余裕があれば、もう少し丁寧に歩きたかった。公園に行ってざっと見ただけで時間切れ。結局昼飯も抜いて歩き廻ったが、ほぼ12時間絶食だったのは自分に余裕がなかったからだろうか・・・?
次回の訪問がいつになるかは不明だが、箱根周辺は魅力的な場所でした。


記録:

交通費:
都内から強羅(往復):3,740

ケーブルカー(往復):820
ロープウェイ(往復):2,340

結構交通費が馬鹿にならないイベントでした。

--------

強羅公園入場料:500







nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

長野県・天竜峡の紅葉 2012年11月11日 [徒然なるまま]


121110富士山.jpg

中央高速バスで移動中、双葉サービスエリアから見えた富士山。
久々に奇麗に見えていた。やはり立派である。

撮影:20121110
撮影機材:全てSONY NEX-5N+標準レンズ or 210mm望遠レンズ


実家がある長野県飯田市。飯田市には様々な観光資源があるが、その中に天竜峡と言う場所がある。なんとここは国定公園なのだ。正確には奥三河国定公園。従ってここは景勝地で、観光地としても素晴らしい場所だ。
1970
年代は、駅前を中心とし、船下り客などで溢れ随分と栄えていた。土産店をやっていた母の実家にはいつも大勢のお客さんがおり、子供時代の私には眩しい場所だった。
1989
年には温泉も出て中央高速道路との連携もあり客足のピークを迎える。しかしそれ以降は次第に客足を落とし、駅前のホテルもなくなり、私が高校時代までに見かけていた光景は少しずつ消え去る。しかし今もなお、魅力的な場所だ。

今回ちょっと実家に所要があり、折角なので東京に戻る前の僅かな時間を割いて天竜峡の紅葉を見に出かける。

121111切石.jpg

飯田線は単線なのだ



天竜峡に向かう飯田線の最寄り駅は当然のように無人駅。私が小学生の頃までは女性が切符を売っていた。
つい先日飯田線の9駅が追加で無人になるという報道もあった。地方路線のセルフサービス化は止まらないようだ。まあ、致し方ない面も多かろう。

昨今は飯田線の南部地域(天竜峡以南)は秘境列車と言われており、無人駅や秘境駅マニアが訪れる場所でもある。地元の人には微妙な気分だ。
特に天竜峡以南の飯田線の駅群は地元民でも秘境というような環境や場所に設置されている場合が多いので、他県からの人には堪らないのだろう。為栗とか小和田なんかは人気のようだ。

121111天竜峡 (2).jpg

天竜峡駅に上下列車が揃った図

天竜峡は紅葉や桜の時期でなくても天竜川が作りだす素晴らしい光景が広がる場所であり、もしこのブログを読んでご興味が沸いたら是非一度は訪れて欲しいと思う。

では東京への戻り時間の関係で11/11の早朝に家を出て駆け足で紅葉を楽しんだ様子をレポート致します。

121111天竜峡 (1).jpg

JR天竜峡駅

天竜峡駅を出て、踏切を渡り直ぐ右の道を入るとつつじ橋(吊り橋)へ向かう事が出来る。

121111天竜峡 (3).jpg


駅からつつじ橋までは徒歩で810分程度だ。周辺には公園もある。

121111天竜峡 (15).jpg

道の途中では既にこのような紅葉を楽しめる


121111天竜峡 (4).jpg

名所 龍角峯
独特な岩肌と紅葉が芸術的だ。


つつじ橋に向かう道はすぐ見つかる。橋に向かう途中には天竜川の対岸にそびえる「龍角峯」が見える。高さ70mほどだという。実はこの場所はかつて自殺の名所でもあったが、昨今はさすがに無いようだ。長野県の下條村出身のタレント・峰竜太氏の名前は、この龍角峯を由来にしていると聞く。


121111天竜峡 (14).jpg

つつじ橋の袂にある湧水所


やがて橋の突端に出る。正直言って、この橋は高所恐怖症の人には渡れないかもしれない。歩くと微妙に揺れるのと、左右は鉄製のロープしかないので絶景を見るには最高のデザインなのだが渡る間は結構シビレル。私でさえも渡る時は股間に風が吹くような感じがした。


121111天竜峡 (5).jpg

つつじ橋
幅は人間3人分程度。長さは60m位。


121111天竜峡 (16).jpg


121111天竜峡 (6).jpg

つつじ橋の中央部から見える左右の絶景。
この日はちょっと薄曇り気味。



しかし橋の中央まで来ると、左右に絶景が拡がる。周辺には様々な野鳥が飛び交っていて美しい。鳥の名前は分からず。

121111天竜峡 (8).jpg

野鳥の姿がソコココに見受けられた。
鳥の名前は分からず。



なお、少なくとも私の知る限り、観光客がこの橋から転落して死亡したという事故は聞いた事がないので、気を付けて渡れば大丈夫な場所だと思うので挑戦して欲しい。

121111天竜峡 (17).jpg

龍角峯(手前)へ向かっている遊歩道



つつじ橋を渡り龍角峯へ登る。先ほど見えていた龍角峯の突端からの光景は実に絶景だ。幾つか写真でご紹介致します。

121111天竜峡 (10).jpg

龍角峯からの絶景。
川の中に見えている船は、観光用の船

誰も居なかったので、しばらく独り占め。

121111天竜峡 (21).jpg

龍角峯からつつじ橋方向を見た風景 

 
眼下には翡翠(ヒスイ)色をした天竜川と奇石群が独特の光景を形作っている。また紅葉がその光景に華を添え、特別な色合いにしてくれる。
地元に居た時代で、特に高校時代は、毎年この光景を楽しむ事が出来たはずなのだが、若い頃はこういうものにさほど視線が向かわない愚かさを改めて感じずにはいられない。自然の色合いとは本当に素晴らしい。今更そんな事に目覚めてきた。


実は、通常の遊歩道以外のルートには別の絶景ポイントがある。ただ、普通の方法ではそこには行けない。
絶景ポイントへの道を以下に説明しよう。

電車が天竜峡駅を出て豊橋方面進むと、直ぐにトンネルに入るのだが、トンネルを抜けた瞬間に鉄橋を渡るのだが、進行方向右側に拡がる天竜川の光景が素晴らしいのだ。
この場所を電車以外の場所から見るためには、隣の千代駅に行く必要がある。電車での移動だと運行時間の関係でなかなか行けないので、駅前のタクシーを利用すれば千代駅前までは行ける。この距離なら2,000円程度以内で収まるはずだ。

千代駅についたら、非合法だが飯田線の線路上をテクテクと天竜峡駅方面に10分程度歩く。すると前述の鉄橋に出る。
ここから見える光景は本当に素晴らしい場所なのだ。私は高校生の時代、ここからさらに鉄橋を上り方向に渡って川の反対側に行って改めて絶景を堪能したが、この方法は本当に危険なのでお勧めしない。危険ついでに500mの長さのトンネルの中を歩いて天竜峡駅まで戻った。その方が近道だからだったからだがこれもお勧めしないし、今の時代では逮捕されるかもしれない。
ティーンの時は無茶するもんなのだ。当時の国鉄さん、本当にごめんなさい。
なお、千代駅からは天竜川の河畔に出ることも可能なので、行ってみることをお勧めする。この周辺も景色が素晴らしい。
ただし、帰りの電車の時間には気を使って行動しないと大変なことになるので要注意。


121111天竜峡 (18).jpg

やっぱり長野県はリンゴだね。


さて、龍角峯を後にして、先を遊歩道に従って進むと、大きなリンゴ農園がある。ここではリンゴ狩りなどができるようだが、周囲の紅葉も素晴らしく散歩に最適だ。リンゴはとても大きく美味しそうだ。
しかしリンゴ農園周辺には、特に厳重な柵もなく、田舎のノドかな感じが残っていて嬉しい。


121111天竜峡 (19).jpg

フトした場所に美しい光景がある


121111天竜峡 (11).jpg

リンゴ園内のカエデが美しい

遊歩道沿いには陶器を焼いたりするお店があったり、お土産屋さんが散見される。

121111天竜峡 (12).jpg

心が癒される風景が拡がる

遊歩道沿いには陶器を焼いたりするお店があったり、お土産屋さんが散見される。

更に川沿いに歩を進めると下の写真のような野鳥が柿をついばんでいる光景に遭遇。この手の写真はなかなか慣れないので私には撮影が難しいが気は心で一枚。もうちょっと開放で撮影すれば良かった。

121111天竜峡 (13).jpg

一句。柿食えば 秋が深まる 天竜峡
(あれどっかで聞いたことあるな・・)



かのように、天竜峡周辺は様々な見どころがあるのだが、交通の便が悪いため、深度の高い観光をするには小回りが効き難いという欠点がある。
大型観光バスで来て船下りをして、私が歩いたような遊歩道周辺を散策し、リンゴ狩りをすると基本的にはツアーは終わりというパターンだろう。

121111天竜峡 (20).jpg

天竜峡駅に近い橋の上からの光景 #01



もう少し足を延ばせる事が可能な交通インフラがあれば、天竜峡には様々な楽しみ方もあるのだが、残念ながら無いのが天竜峡の観光地としての更なる発展への課題かもしれない。
あと2030年程度でリニアモーターカーが地元付近に開通すると言われており、期待も大きいが、周辺の観光地を一定以上に発展させるためには、地元民の不断の努力も必要だろう。

121111天竜峡 (22).jpg
天竜峡駅に近い橋の上からの光景 #02



高齢化問題による観光地周辺事業の継続も課題だ。これらが予算で解決できる問題なのか、工夫で解決できる問題なのか、今、問われているように思う。


奥三河国定公園 天竜峡 公式 WEBサイト:
http://www.tenryukyou.com/


付録:

121111自宅 (2).jpg

実家にて撮影



121111自宅 (1).jpg

実家にて撮影

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

新宿御苑と新宿周辺 2012年11月4日 [歴史&庭園(History&Garden)]

新宿御苑と新宿周辺

121104新宿御苑#05.jpg
 

 

2012114日。新宿御苑は、秋恒例の菊花壇展をやっていた。実はこのイベントは初めて見る。日本庭園周辺に展開していた菊花壇展は、見事な菊花が華やかに演出されていた。御苑はこの時期から12月中旬まで紅葉のシーズンを迎える。既に一部では紅葉の気配が始まっており、園内一番東側のポプラの木々は11月中旬が紅葉のピークとなる。中の池では白鷺が池で食事をする光景が見られた。

121104新宿御苑#06.jpg

~500本の菊によって構成された菊壇の大作~


御苑を出て、久しぶりに元コマ劇のあった周辺や新宿東口を歩く。コマ劇は既に取り壊されており、ここが高層ビル群になるのも近い。昭和の歌舞伎町の風景が少しずつ変化している。
新宿東口前は相変わらず人で溢れている。喧嘩の跡だろうか、血だらけのサングラスと出血の跡が残っていた。

では写真をご覧ください。
撮影は全てSONYのNEX-5Nによって撮影しました。


121104新宿御苑#07.jpg

NEX-5Nはちょっとだけ黄色の発色を現物と合わせるのが難しい。


121104新宿御苑#01.jpg

太陽に輝く白鷺の姿が美しく、思わずシャッターを切った。



121104新宿御苑#13.jpg

餌を真剣に狙う白鷺。この時期のスターかもね。



121104新宿御苑#02.jpg

野鳥を狙う本格的なアマチュアカメラマンたちには到底かないません。
この手の写真には500mm程度の望遠がないとダメだなあ・・。
(ちなみにこの写真は210mmで撮影し、中心部をトリミングしたもの)
鳥の名前は忘れました。



121104新宿御苑#03.jpg

美しく咲かせるものである。関心。



121104新宿御苑#08.jpg

これらの種類も美しい。可憐である。


121104新宿御苑#09.jpg

日本庭園前に作られた小菊の一群。


121104新宿御苑#10.jpg

育成者の心が伝わるような手間暇かけた作品群。



121104新宿御苑#15.jpg

午後の太陽に照らされた青葉の光と影に
思わずカメラを向けたが・・・。



121104新宿御苑#14.jpg

抽象画を思わせる葉の織りなす色合いは芸術的とも言える。


121104新宿御苑#04.jpg

ポプラの並木はこんな感じ。


121104新宿御苑#11.jpg

ポプラ並木も良い感じに紅葉が始まっていた。

 ------------------------



121104新宿元コマ劇.jpg

新宿の元コマ劇前。随分と様子が変わってきた。


121104新宿風景-1.jpg

新宿東口前の流血。血の跡を見るとかなり殴られたようだ。
喧嘩だろうか? 左奥に残されたサングラスが見える。



121104新宿風景-2.jpg

新宿東口は数十年前からずっとこんな感じだなあ・・。






nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:音楽

カメラの性能比べ(NIKON D40,SONY NEX-5N,OLYMPUS SP 800UZ [徒然なるまま]

SONY NEX-5を検討している方への利用者レポート

カメラを買う度にネット情報を収集してみるが、どうしても今ひとつ良く分からない。結局当たりをつけて買うしかないが、ネット情報で助けられた事もあり、私も何かでお返しせねばと思い、購入検討者のためになればと思いブログに書いてみた。

三台目のカメラとしてSONY NEX-5Nを買った。実は10万円代の一眼レフ(ミラーレス)も狙っていた。しかし、散歩で歩き回りながら写真を撮る私には躯体の重いカメラはかなりの負担であり、コンパクト一眼を選択することにした。

SONY NEX-5Nを購入した後、私が持っている二台のカメラで同じ被写体を撮影して比較してみた。

使用カメラ:
NIKON D40
2007年購入)
OLYMPUS SP 800UZ
2011年購入)
SONY NEX-5N
2012年購入)


撮影場所:霞ヶ浦公園(天気:曇り)
撮影日:2012年7月21日
時間:13時ごろ

霞ヶ浦公園SONYピンクのハス.jpg
 撮影機器:NIKON D40
 撮影方式:マニュアル
 絞り:f 7.1
 シャッター:1/250
 ISO:200
 露出補正:-5ステップ
 焦点距離:200mm
 最大絞り:5
 測光モード:中央重点主義
 フラッシュ:なし
 画素数:610万画素

画素数が他の機種に比べて低いので柔らかい感じで撮影できる。拡大した際の細部の再現力はさすがに劣るが、味のある感じの写真が欲しい時はこの機種がハマる。写真は望遠(200mm)を最大にして撮影しているが、被写体の花までの距離はカメラから5m程度。

霞ヶ浦公園OLYMピンクのハス.jpg 

 撮影機材:OLYMPUS SP 800UZ
 撮影方式:オート
 絞り:f 5.1
 シャッター:1/250
 ISO:50
 露出補正:0ステップ
 焦点距離:83mm
 最大絞り:2.97
 測光モード:オート
 フラッシュ:なし
 画素数:1400万画素

ISO50の撮影だと、中央の黄色い部分を見てみるとNEX-5Nより若干クリアーに撮影でき細部の再現度合はNEX-5Nに劣らない感じがする。写真は付属の望遠を最大にしており花までの距離は5m程度。

霞ヶ浦公園NKNピンクのハス.jpg
 撮影機材:SONY NEX-5N
 撮影方式:プログラムオート
 絞り:f 6.3
 シャッター:1/400
 ISO:100
 露出補正:0ステップ
 焦点距離:210mm
 最大絞り:5.3125
 測光モード:パターン
 フラッシュ:なし
 画素数:1610万画素

プログラムオートで撮影すると他の2台より若干暗く撮影される傾向があるようだ。細部の再現性は平均的にはこの機種が上回る。撮影時の最大望遠は210mmだが、画像を切り取ると300mmに近い効果が出る。花までの距離は5m。

ここまでの総評:
NEX-5Nはオートで撮影すると全体的にアンダー気味に撮影される。そのため常に露出を若干明るめにしたくなる。特に暗めの場所を撮影する時は気になるので調整が必要。SONYは全般的に赤系の発色が綺麗に出やすいので、紅葉とかの撮影に適していると思う。撮影時には明るさと色調の調整を多少やることで結果も違ってくる。またオートフォーカスだが、一律平面的ではない被写体では自分の考える部分にフォーカスが合わない場合も出てくるでのDAF(オートで決めて、マニュアルで詰める方式)を利用で、最後のひと絞りはマニュアルフォーカスで対応した方が誤りのない写真が撮影できる。

有効画素数は1610万画素なのと、CMOSセンサーも大きめなので、撮影した画像の一部を切り取って拡大すると望遠効果を得られる。慣れれば使い勝手も問題ない。パノラマ撮影も非常に楽で効果的な映像だ。
夜間撮影の場合、自動3連撮影をアルゴリズムで1枚の手ぶれなしに近い写真にしてくれるので、これは便利で、フラッシュがなくても有る程度の暗さでも撮影でき出来具合も結構悪くない。

(問題点)
静止画を撮影している時、
録画ボタンが右手の親指にかかるため、誤って押してしまうことがあり、録画ボタンが稼働しないモードかカバーが欲しいと思った。動画については60pなので一定以上の画像で撮影できるが、高速で動くものや格子系が動く映像は他の機種同様に難点はあるが、プロ機じゃないので仕方ない。
またフラッシュは必要な時にカメラ本体に接続しなければならないが、ネジ式なので設置に手間取り、瞬時の撮影には向いてない。
また接写の際、ターゲットが小粒だとなかなかオートで焦点が合わないが、他機種も似たようなもんなので仕方ない。

実はオリンパスのSP800UZをISO50~100でキチンとした光量下で撮影するとNEX-5Nの画像と余り遜色ない。ただSP800はISOが400を超える辺りからノイズが増えてしまい、綺麗な仕上がりになり難い。NIKONは610万画素のため、他に二機種にくらべると柔らかく仕上がるが、これはこれで味だ。

NIKONのD40はさすがに5年前(2012年時点で)なので黒いターゲットや暗い所だとシャッターが切れないことがあり、不便な部分がある。


撮影場所:新宿御苑 
日時:2012年8月5日 1430
天気:晴
撮影はオートで撮影してみた。


新宿御苑NIKON (14-2).jpg


機種:NIKON D40(上)
絞り値:f/5.6
露出:1/160
ISO:200
露出補正:-5ステップ
焦点距離:22mm
最大絞り値:3.8
測光:中央重点測光
総評:全体的に自然な感じで撮影できる。派手ではなく堅実な感じに仕上がる感じだ。


新宿御苑OLYM (20-2).jpg


機種OLYM  SP 800UZ(上)
絞り値:f/5.7
露出:1/80
ISO:50
露出補正:0ステップ
焦点距離:7mm
最大絞り値:2.97
測光:パターン

オリンパスはレンズが暗いせいか、ちょっと被写体が暗めだとシャッタースピードが他の機種に比べて格段に遅くなる傾向があり、手ぶれの遠因となる。このためオリンパスで撮影する際は光が十分あり、ISO50-200以内に設定でき、シャッタースピードを1/125程度以上稼げる場面での使用に留めている。


新宿御苑SONY (28-2).jpg

機種SONY NEX-5N(上)
絞り値:f/5.6
露出:1/160
ISO:100
露出補正:0ステップ
焦点距離:55mm
最大絞り値:4.33
測光:パターン

総評:こういう陰影がある場所を撮影するとNEX-5Nはちょっと重めに仕上がる。彩度や明るさを微調整すればもう少し現場の自然に近い印象になると思う。密度感はこのカメラが一番あるように思える。



その他のSONY NEX-5で撮影した映像の御紹介。


120929新宿御苑.jpg

新宿御苑にて撮影。彼岸花。赤の発色はかなり良く
現場の色に近いが、光の加減でちょっと派手目には出る。
オートモードで撮影するが、絞りと深度は若干調整。
望遠レンズで撮影。
2012年9月29日


120813上野動物園ハスSONY.jpg

上野不忍池の上野動物園内の敷地のペリカン。
2012年8月13日撮影。200mmの望遠で撮影し、

中心部だけを切りだして拡大した写真だ。被写体との距離は大体だが

60-70m程度。


121008川村美術館ED.jpg


千葉佐倉市の川村記念美術館で撮影の鳥。
撮影日は2012年10月8日。若干曇り。
被写体との距離は2~3m。標準レンズで撮影。オートモード。


121021神代植物園.jpg


神代植物園(調布市)にて撮影のバラ。
撮影日は2012年10月21日。
レンズは標準。オートモード。

NEX-5Nを使用していてに特に大きな不満はない。このクラスの値段を鑑みれば、SONYのαシリーズの一眼カメラが買えるクラスなのだ。
人によっては、望遠を付けた際の重量バランスの悪さを指摘するプロ系の人々も多いのは知っているが、望遠つけたら大抵のカメラはバランスが悪くなるので気にしないことにしている。
もし望むなら拡大した際の画像の精密さがもう二段階程度高くなるとで望遠効果が高くなるので、そうなれば更に有難いと思う。
またオート撮影時の露出が若干アンダーなのは調整して欲しい程度だ。
カメラはどこにこだわるかで評価も異なるが、私のように芸術作品を撮ろうとするのではなく、スナップと芸術の中間の利用者なら全く困らない。
また画質そのものは非常に質感を伴って撮影できるので、ウルサイ人でもかなり満足度を得られるだろうと思う。プロ機器はNIKON,CANONが主勢力だが、結構SONYも悪くないです。カメラ的にはちょっと穴場かも。

しかし写真撮影は難しいし奥が深い。私はアラーキーさんのようなライブなスナップショット系写真を目指しているので、金をかけたカメラを操る芸術的な写真は苦手だが、いずれにしても知識も経験も私はまだまだでございますだ。
サンプル画像に人間が出てこないが、これは人間を撮影するのは色々と難しい部分があるからに他ならない。
やはり写真の醍醐味は「人」なのだが、人を撮るほど難しい事はないので、またいずれかの機会に・・・。


私はワーキングプアだった!? [徒然なるまま]

1982部屋.jpg
1982年当時の6畳ひと間の自宅
結構小奇麗に暮らしていたもんだ。

 


連合・連合総研の2012年の共同研究によるワーキングプアの定義は「単身世帯で年収200万円以下、複数人世帯で年収300万円」と定めており、「単身世帯で年収200300万円、複数人世帯で年収300400万円」を予備軍としている。ただし高齢者で年金生活者は除外されている。

ところで1982年に大学を卒業し社会人になった際の私の月給は額面で10万円、年収で130万円程度だった。だが翌年から転職してミュージシャンのボーヤを家業としたため月給が7万円になり年収は額面で84万円になった。
当時の大卒額面初任給は127,200円で年収ベース(ボーナス2カ月を含む)1,778,000円だ。1984年当時の私の年収と比較すると大卒平均の47%程度であることが分かる。

これを現代に当てはめれば、大卒の額面初任給は203,362円で、年収ベース(ボーナス2カ月を含む)2,847,068円で、ボーヤ家業をやっていたとして換算すると1,338,122円だ。

当時にしても現代にして完全なワーキングプアだ。

そうか・・、私はワーキングプアだったのだ。全く知らなかった。

では当時の私の暮らしぶりはどんな感じだったのか?

確かに苦しかった。当時の私の生活感は大学時代と全く同じだったので、自分が貧困層だという認識そのものが無かった。部屋には風呂が無かったし電話も無かった。機材のローン約8,000円も毎月キチンと支払っていた。但し貯金は殆ど出来なかったが、それでも毎月何とか数千円を残していた。

当時の私の仕事場は、六本木のレコーディングスタジオが多かったので、食事には本当に困った。当時はコンビニも無く、ファーストフード店も殆どない時代だったので、店屋物か弁当を作って持参するかのどちらかだ。しかし店屋物は六本木という立地のため私の財布では毎食を対応できず、弁当にするか、食べないで我慢するかを強いられた。弁当も夏場になると夜まで持たず捨てたこともあった。ミュージシャンたちは1200円もする弁当を夕食で食べていて、彼等にお茶を出す私に目には本当に毒だった。
1本100円の缶コーヒーを買うのも決死の覚悟というのが本音だった。

それでも何故か悲観的な生活ではなかった。音楽業界に憧れていた事もあり、テンションが高かったのだろう。結局26歳くらいになるまで私はワーキングプアのままだった。

26歳から同じ業界内で職場が変わり、アルバイトながら深夜勤務の手当てがつくようなったことで月額18万円程度になり、年収レベルで当時の新卒と同等になりワーキングプアから解放された。それによって貯蓄額が上がり、引っ越しも出来、27歳になって初めて風呂付の家に住めるようになる。ちなみにエアコンはない。
それでも私の年収は年齢に比べて非常に低かったと言える。しかし以前に比べて倍以上になったことで収入の低さを気にした事がなく、自分の望んだ音楽業界で仕事が出来ていることだけでも十分満足していた。
 
私はワーキングプアだった20代中盤の時でさえも生活費を借金した事がない。生活費は一度借金してしまうと相当な収入改善でもないと返済不能に陥るからだ。
よく、給料日前になると金がないと困っている友人を見かけたが、私にはそれ自体が理解出来なかった。決まった給与なので1日当たり使用できる金額は自ずと限度があり、給料日に金持ちで給与支給前に貧乏になる訳がないのだ。
借金でボーナス返済をしている人もいたが、将来の収入を無駄な支出で先食いしているだけなので、余り賢いとは思えない。

自分が50
歳を過ぎて当時の自身の生き方が正しかったかどうかは分からない。しかし自分のやりたい世界で働くという点は実現でき、結局音楽業界には20年近くいた。
収入面では随分と損をしたと思っている。
また夢の一部は実現し、一部は実現しなかった。
今は別の業界でサラリーマンになって給与も人並みだ。
45歳で正社員になれたのはある意味奇跡に近いと思う。ちんまりとリーマンをやっていれているのも、かつて自分のやりたい世界で生きて自分の限界を知った事があるからかもしれない。

ただ、このキャリア形成は他人には進められない。私の周囲にも40歳で不安定なアルバイトをして生活している人間がいる。今後50歳に近付くと彼も相当苦労するだろう。
また私の24歳の甥も夢を追いかけてフリーター生活だが、私は彼に人生を説教する資格などない。

人生設計って本当に難しいもんだと思う。シャープの社員だって会社があんなに傾くなんて想像だにしなかっただろう。
ワーキングプアという言葉が独り歩きして、この年収以下は不幸せだ!という切り方は余り良くないと思う。人生は人それぞれだからだ。
しかし子供を養育する立場の人の低収入は本当に深刻だと思う。子供の教育が金銭によって左右されるのは、国として何とか税金で補うべきものだろう思う。

今後自分にだって何が起こるか分からない。出来れば死ぬ時に“そんなに俺の人生悪くなかったじゃん”って思えたらかなり幸せな方なのだろう。出来ればそうであって欲しいとひたすら今日を生きる。人生はやっぱりThe Long and winding Roadなんだよね。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

中国・韓国が科学分野のノーベル賞受賞者を誕生できない本当の理由 [徒然なるまま]



001[1].jpg

日本は山中教授を含めこれまで19人が受賞しているが、中国・韓国はノーベル平和賞だけ。
世界の注目を集める賞だけに日本に対抗心を燃やすのは理解できる。

「科学・医学・物理分野のノーベル賞は国の悲願」という両国になぜ受賞者が出ないのか。
中国のジャーナリスト・周来友氏は「教育制度に原因があります。詰め込み、試験偏重による丸暗記が多く、創造性に欠ける」と指摘する。さらに周は「貧しかった中国を手っ取り早く発展させたので、他人の成果を真似るパクリ文化が広がり、地道な研究は苦手なのだ」という。
実は日本だって戦後は似たような部分を持っていた。しかし中国、韓国が基礎研究分野等でノーベル賞を受賞できるような成果を上げられないのは、彼らの国を覆う思想に根本的根拠があるのだ。

中国・韓国が“地道な研究は苦手”というのにはキチンとした理由がある。
未だに儒教・朱子学の思想が強いのがその主たる理由なのだ。
日本で云うと士農工商という身分社会を有していた江戸時代の社会思想だ。
この思想のオリジナルは中国であり、日本にも奈良時代の律令制度のような形で入り込み、韓国は中国に支配を受けていた朝鮮時代を中心にその影響を強く受けたと言われる。

日本では「士=サムライ=実質的支配者」であり、中国・韓国では「士=士大夫=官僚/両班=実質的支配者」の構図だ。
儒教は中央集権国家の根本であり、簡単に言えば選ばれしエリートが愚民を指導・教育し国を運営するという思想だ。
中国・韓国は、エリート出身大学かどうかで人生が大きく変わる。

日本だって公務員上級試験をパスした連中がキャリア組と言って特に客観的な理由もなく霞が関で出世コースがノンキャリアに比べて優遇されているのは、江戸時代の儒教思想の名残だと言える。いわゆる科挙制度だ。そういう意味では現在の日本も僅かだが政治機構の中に儒教思想が現存する。

こうした思想の影響のため、中国・韓国には日本のような「老舗」がない。儒教国は日本のように何代も継続する酒屋やお菓子屋のような仕事を社会的に非常に下に見る傾向があるからだ。
儒教国の国民にとって、地道にコツコツやることは、エリート頭脳階級と比較して社会的価値が低いという信仰があり、これが基礎研究者の育成や製造業の継続を阻んでいる。
また頭脳よりも肉体を使う仕事や技術的業務に携わる人々の社会的地位が低いのはこうした背景があるからだ。
だから製造業が根付き難い社会環境で、島津製作所の社員でノーベル賞を受賞した田中耕一氏のような人材は中国・韓国からは非常に出にくいと言える。


ここまで語れば何故中国・韓国が“地道な研究は苦手”という一端が分かるだろう。10年も20年も成果や褒美が出るかどうかも分からない仕事をコツコツやることは、日本人には美学だが、彼等には人生の無駄とさえ映るのだ。これは良い悪いではなく、そういう信仰の下で国をまとめている彼らの宿命だと言える。

日本では尊敬される造り酒屋や何代も続いたお菓子の老舗、漫画家や小説家なども中国、韓国では社会的地位が非常に低い。
そのために、彼等は直ぐに結果の出るものに飛びつく傾向があり、蓄積が出来難い社会構造になってしまったのだが、その根本には儒教思想が根強くあるのだ。

2005
年に韓国のファン・ウソク教授がES細胞論文不正事件で世間を沸かせたが、こうした背景には、成果への大きな焦りがある。
また中国や韓国が金にまつわる部分に日本人には理解できないようなこだわりや執着、問題を見せるのは、エリート的な支配分野以外で社会的地位を確保する手段が金銭面での成功くらいしかないからだ。


もしも中国・韓国が地道な研究に人員を集めるためようと本当に考えるのであれば、彼等の社会に無色彩に存在する儒教思想の毒を一度解毒するしかないと思う。
中国にも韓国にもノーベル賞を受賞できるような優秀な人材がいるはずだが、彼等がこの点を理解しない限り、将来に渡って科学分野のノーベル賞を生む事はかなり難しいというのが私の見解だ。
今回の件で大型予算を付けて基礎研究分野に力を入れるという両国だが、山中教授が言うように基礎研究者は一生を歯車に徹する事が出来るかどうかのような地味な存在であり、成果有りきで臨める仕事ではないのだ。
地道にやって報われないかもしれない仕事に自分の人生を賭ける覚悟を持った人々だけがノーベル賞の栄誉を受けられるのだと思う。

山中教授が今回の受賞を”自分は神輿に乗っただけ”と語るのは、今回の成果が過去の研究者たちの積み重ねによって成立しており、自分一人だけで成し得た成果ではないという基礎研究者のリアリティーを語っているに過ぎない。

日本の基礎研究に関わる殆どの人々はノーベル賞なんていう高尚な賞に縁のない人ばかりだ。予算だって研究環境だって必ずしも良い訳じゃない。研究者の殆どが非正規雇用で、この点は山中氏も指摘している。
地味で目立たない研究も多い。それでもコツコツやれるのは、日本の国民性であり、地道な人材育成の賜物なのだ。(イギリス人やアメリカ人もコツコツやるタイプが多い民族だ)


中国、韓国がこの分野でのノーベル賞を本当に望むのであれば、まずそうした成果を望まない姿勢が必要だとも言えそうだ。 


nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

渋谷駅周辺の人生の陰影 [徒然なるまま]

JR渋谷駅。
私を含めて多くの人が毎日通過する場所だ。渋谷と言えば若者で賑わう華やかなイメージがある。

121009渋谷HML (14).jpg

Hikarieなどで煌めく夜の渋谷:


しかし駅南口の高架橋下や宮下公園都隣の自転車置き場周辺には全く違った光景が拡がっている。

121009渋谷HML (3).jpg

(上)渋谷駅南口の国道245線の高架下

この場所周辺にホームレス(野宿者の記載にこだわる人たちもいるが、ここでは一般的呼称で進める)の方々が定着し始めたのは、宮下公園の開発時期と同期している。宮下公園にはホームレスの方々が定住しており、公園を利用しようとする区民からの苦情が絶えなかった。一般論としてそうした苦情があるのは理解できる。

宮下公園101123 (1).jpg 

宮下公園ホームレス101123 (1).jpg

宮下公園から出された方々は現在公園下の駐輪場の横に仮設住宅のような状態で生活をしているようだ。土台がコンクリートになって安定したようだが、夏・冬の気温差には不利かもしれない。

宮下公園ホームレス101123 (4).jpg



渋谷区は私企業の入札によって
公園の再開発を提案し実現。支援者による強い反対運動も実らずホームレスの方々は公園の住処を追われ、現在はスポーツなどが出来る施設が公園内に出来ている。実は駐輪場隣りに出来た彼らの建物数は宮下公園にいた居住者を超える。


(参照/公園からの移転に伴う経過を追ったブログ記事)
http://www.tanteifile.com/diary/2011/06/29_01/index.html
http://www.tanteifile.com/newswatch/2010/10/16_01/index.html

http://www.tanteifile.com/newswatch/2010/10/19_01/index.html



実は私の人生の中で、
30代中盤に仕事が行き詰まり、貯金の残額も心もとないほどになり、ホームレスになるんじゃないかもしれないという現実を覚悟した事がある。私の知り合いにも同じ感覚を持った人がいて、当時自営業だった私のような不安定な職種は皆不安感があったようだ。

幸いそれは実現しなかったが、そういう意味でも私にとってホームレスの方々は単なる負け組の成れの果ての人々ばかりとは思えない。ひょっとしたら彼等のいる場所に自分がいたかもしれないのだ。


121009渋谷HML (7).jpg

きっと様々な事情があったのだろう。現代はちょっとした事が生活環境を激変させてしまう時代だ。ちょっとした失敗で復活できず悪循環で落ちて行ってしまう時代に不安が募るからみんな護りに入る。
渋谷地域に密集するホームレスの方々の年齢層を見ていると、私とさほど変わらない年齢の方々が多い。
彼等の中には現在の私のように普通のサラリーマンだった人だっているかもしれない。

資本主義社会の中で様々な人生を歩んできて、上手く金銭に恵まれるような仕事をしてキャリアを積み上げて来た人々だけは、なんとなくそれらしい生活をしている。傍から見れば自分だってその一員かもしれない。

121009渋谷HML (10).jpg

突き詰めれば私たちとホームレスの人々の最大の境界線は「金」の存在だけとも言える。もちろん有金をギャンブルなどに散在して自業自得でホームレスになった人もいるだろう。

いずれにしても自立自活できるほどの金を持つ能力のない人々はホームレスになる運命が待ちかまえている。でもホームレスであることを積極的に受け入れている方々も存在する。

生活保護を受ければいいのに・・と言う人もいる。確かにそうだ。公的なホームレス支援は存在する。しかしホームレスの中には意識的にそれを拒絶する人もいる。故に自身の選択でホームレスになっている人がいるのも事実だ。また自業自得と言う人も多い。それも真実だろう。

私はホームレスの人々を見て、単純にお気の毒だな・・とも考えない。

ホームレスの中には現状を抜け出したいと考えている人だって存在するし逆もあるだろう。しかし彼らだけでなくても昨今は経済的敗者が再チャレンジするには現代は非常に過酷である。
勝ち組と呼ばれる人々の多くは成功と共に金をつかんでいる。
それは資本主義が理由じゃない。本来ならあり得ないが、共産主義国の中国だってとんでもない格差社会だ。思想原理的には格差のない国に格差がある現実。

残念ながら人間に限らず生物の生存には根本的な格差が出来てしまうというのが事実のようだ。人間はそれを知恵によって小さく出来るはずなのだが・・・。


私だって今の会社を追われたら再就職なんてままならない。多分ロクな仕事もないだろう。
40代の頭に失業してハローワークに行って驚いた。本当に収入に良い仕事の情報なんて実はハローワークなんかにはないのが私の認識だ。

50
歳近くなると、死ぬまでちゃんと生活することがこれほど大変なのか・・と実感する。年金問題だって社会保障だって若い頃とは比較にならないほど身近な問題だ。
そもそも50歳過ぎたら賃貸の部屋を探すのだって結構なハードルとなる。
それにあの大企業のシャープだって傾くような時代なのだ。
サラリーマンが自営業者並みに各人の成果を求められる時代でもある。でもそんなに誰しも高い能力ばかりの人材じゃない。全員が勝てる訳もないのだ。


121009渋谷HML (12).jpg

(上)身綺麗な彼はここの定住者ではないようだ。何かの事情で一時的にここにいるのかもしれない・・・。ダンボールだけが僅かな緩衝地帯だ。

渋谷にひっそりと暮らす彼等の姿を見て優越感も憐憫も感じる事はない。彼らと私の間にはちょっとした違いがあるだけだ。
残念ながら私には彼らを助けられない。
それどころか、ひょっとしたら今でも自分が何らかの事情でホームレスになってしまうんじゃないかという恐怖感すらある。
私が常々異常に不潔なトイレの夢を見るのはその恐怖の表れかもしれない。

その心理が彼等の存在に自然と彼らに目が向く理由かもしれない。
現代にはそうした言い知れぬ不安感を煽る何かが存在するし、渋谷には確実にそれがある。街を行く人々は一見幸せそうに見えてもそれぞれの事情があるのだ。東京にいるとそれが感じられる。

2012年10月10日記述。


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:日記・雑感

よく思いつくなあ・・と感心した写真だぜェ [徒然なるまま]

暇だなとも思うが、でもかなり多くの人が笑ったはずだから、無駄ではあるまい。良く思いつくよなあ。それも結構出来良いし。

笑える.jpg

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:blog

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。