派遣労働という在り方を悩んでみる [徒然なるまま]
私は特に労務管理のプロじゃない。なんでこんなテーマで書いてみようかと思ったかというと、アルジェリアの人質殺害事件があったからだ。犠牲者の中に派遣労働者の方がいらっしゃった。
アルジェリアという遠方でなおかつ、特殊な環境下での業務の最前線でも派遣労働者が働いていたという事実に少なからず驚いた。
誤解無きように前もって言っておきたいのだが、私は日揮がアルジェリアに派遣労働者を送っていたことに反論、意見をしようと思って書いている訳じゃないので予め断っておく。
それ故、ここでは一般的な派遣労働者について感じる私の意見を書こうと思っている。
派遣労働については様々な意見がある。雇用の流動性確保の観点から見る人や、長期的生活設計の観点から見る人など様々で、それぞれの立場によって評価が異なる。派遣労働はリーマンショック後の製造業による大量の解雇問題があり、以前より規制がかかったので流動性が失われたと云う人もいる。
実は私の会社や部署にも派遣労働者が沢山働いている。私の部署にも何名かおり、その中には結婚して子供のいる人だっている。
世間では彼らを「非正規雇用者」という。しかしなんと失礼な呼び方だろう。誰が付けたか知らないが、極めて差別的な匂いのする言葉の選択だ。
私個人の意見としては、派遣労働という雇用形態は好きじゃない。これは自分がそういう立場で働いていた時代があったこともあるが、若い一時期ならともかく、中年に差し掛かった派遣労働者の現実を見ると、こういう労働体系は少なくとも生涯を組み立てる労働体系には向いていないんじゃないかと思う。
派遣会社の担当者に聞いてみると、一般的には35歳を超えると求人数が減り、仕事も限定的になると言う。
また40歳を超えるとかなり特殊な能力がないと求人がないとも語っていた。
つまり、35歳以降は、それ以前のキャリアを使って正社員として雇用される会社に入るか自営できるレベルになっていなければならないという事だ。
これは簡単に言うとフリーランスのレベルを普通の職業人が持たなくてはならないということなのだ。
私はフリーランスで仕事をしていたこともあるが、仕事が来ない時は本当に辛い。フリーランスとは仕事がなければ無職同様だからだ。
過日、アルジェリアで亡くなった派遣社員の方が、自分を必要とする場所ならどこへでも行くという言葉を残していたと聞いて、派遣労働者としてキャリアを積んできた人たちの人生の難しさを感じた。
私も仕事がドン詰まって苦しい思いをしていた時期、この言葉と同じ感覚を持った事があったからだ。
私が派遣労働者として働いていた時期は人生の中でもごく僅かな時間だったが、年齢と共にキャリアアップをして自分の価値を高めるのは、相当な能力を持っていないと困難だというのが実感だった。
通常企業が派遣労働者を雇う場合、法制上3年後には辞めてもらわなければならない。従って派遣労働者は自分のキャリアを継続できる別の企業の新しい環境下で働かなくてはならない。
何より派遣労働者にとって最も不利なのは、同じ年齢の正社員が持てるような情報やスキルを労働環境からは一切与えられず、評価も蓄積しないということだ。またボーナスがもらえないため、正社員との収入格差は開くばかりで全般的には非常に不利な環境になってしまう。
しかし企業側にとって派遣労働者は社会保障費用などをセーブ出来、ボーナスもいらないためコストフレンドリーなのだ。
もちろん選択的に派遣労働者をなさっている人も多くいるだろうから、私の意見が一般的な派遣労働者の意見ではないかもしれない。
正社員が身分化して労働市場に必要な流動性をなくしているという批判もあるが、それによって一定の生活設計を描け、家などのような大きな買い物が出来る面もある。
誰かがテレビで20~30年後には国民全員がフリーターになる時代が来ると言っていたが、それも強ち的外れな見込みではないようにも思う昨今だ。
12年の8月に労働法が改正され、同一会社内での社員と契約労働者の基本的待遇に差別がないように規定された。しかし有期契約である点は変わらない。
人生を50年も過ごすと、キャリア形成という言葉が本当に身に染みる。私は若い頃にチャレンジしたキャリアを40代前半で一旦終了しなければならなかった人間だ。つまり大きく挫折している。
しかしその後の仕事が前半の人生のキャリアの蓄積に上に成り立ったので、その点は幸運だった。
しかしそれはちょっとした運命の歯車によって成立していただけで、実際は冷や汗ものだった。
社会人になって初めて正社員として10年近く同じ会社に勤める生活をして見える光景は、40歳以前の光景とは全く違う。確かに失ったものも沢山あるが、実際得たものも多い。私には才能だけで生きられるほど特殊な能力がなかったということだ。しかし私のように普通の人間が40歳を過ぎてのキャリアの再構築は、信じられない位困難だと知らされた。
社会がフリーターや派遣労働者のような労働体系を一生涯続けることを是としたら、私は一定の社会崩壊が起こると思っている。殆どの一般人はそんなに独特の才能に恵まれて生きているわけではないのだ。自分を振り返ってもそうだし、自分の周辺を見てもそうだ。そのため企業のような受け皿が必要だとも思う。フリードマンのような自由経済主義を信奉する人々には私の考え方は、誤っているし、甘いし論理的根拠もないと言われるだろう。
しかし完全な自由主義、もしくは自由という勝手な社会の果ては人間社会そのものを分断するような構造的リスクが考えられるのだ。
国が一定程度の範囲で国家としての機能を持つためには絶対に富の再配分が欠かせない。これを社会主義という人もいるだろう。資本主義が社会主義的要素を持たなければならないのは皮肉であるが、現実問題として社会主義的要素を排除したら国家は成り立たないだろう。
実際ユーロを見れば分かるだろう。全く違う経済力を持つ国々を1つの国のように扱い、通貨を統合し、富の再配分を殆どしないで自立した経済をルールにしたら全く機能不全したではないか。
そのために注入した金は一体何だと問われれば、ドイツが他国から儲けた分を再配分したに過ぎないという言い方だって出来る。フリードマンは企業には社会的責任など一切なく、株主のことだけに注力して経営し設ければいいと言っているが、私はこの点については彼の意見には全くの反対論者だ。それでは結局のところ社会全体が廻らないのが事実だからだ。
アメリカは自由経済国だが、それでも一定の富の再配分構造があるためそれなりにまとまっているように見える。
もしそうでなければ各州が独立運動を起こすだろう。スペインのカタルーニャ地方の独立問題だって根本的には再配分に絡む問題だ。
自由経済主義信奉者には残念なことだろうが、人間社会には完全な能力主義や自由主義だけで成立できない要因がある。それを何らかの方法で埋めなければ能力のある人材でさえも活躍できないような不安定要因が増し、結局能力のある人間にも損な社会形成になるだろう。
派遣労働者の話から外れたように見えるかもしれないがそうではない。労働環境の一定範囲内の保全は結局のところ誰にとっても社会的メリットがあるのだ。悪平等を推進している訳じゃない。自由勝手では社会の最適化は望めないのだ。そのかじ取り方法は、各国の国民が政治家を選んで決めればいい。
経済の論理的最適化は結局のところ泥臭い人間の社会にフィットしない。
派遣労働者やフリーターが増え、中高年になって不安定になれば税収、購買などに大きく影響する。場合によっては社会保障によって支えなければならないだろう。企業にとってプラスな事が社会にとってはマイナスであるかもしれないのだ。そういう意味で派遣労働者やフリーターという労働形態を無批判に社会が容認するのは、そろそろ考え直した方がいいと思う次第だ。
未告知の口(くち)パク・ライブは詐欺行為じゃなかろうか? [徒然なるまま]
先日オバマ大統領の二期目の就任時にビヨンセが歌のパフォーマンスをしたが、それが口(くち)パク疑惑(というはほぼ口パクと断定されているようだ)で世間を賑わしている。何を今更という気がしないでもない記事でしたが、アメリカの大統領の式典で口パクするとはオバマ大統領も随分と舐められたものです。
ビヨンセもこのような大舞台で口パクするとは、演者としての価値を下げた感じもする。
(以下web記事の引用)
Washington Postなどによると、2月3日に開催されるスーパーボウル・ハーフタイムショーに出演するビヨンセは、1月31日にプレス向けの会見に出席。記者たちに起立するよう求め、国歌をアカペラで歌って見事な歌唱力を披露すると「何か質問は?」と呼び掛け、笑いを誘った。
その後、「わたしは完璧主義者なの」と語り出したビヨンセは「いつもは足から血を流すまで練習するんだけど、あのときはオーケストラとリハーサルをする時間がなかった。悪天候だったし、適切なサウンドチェックができなかったからリスクを冒したくなかったの」と録音テープを使用することになった経緯を説明。
さらに「オバマ大統領の就任式だったし、わたしは彼にこの国を誇りに思ってもらいたかった。だから事前に録音したものに合わせて歌うことに決めたの。音楽業界では普通のことよ。わたしはあのパフォーマンスをとても誇りに思っているわ」と“口パク”は就任式を完璧なものにするための選択であったことを明かした。(引用ここまで)
口パクという言葉を知らない人のために解説すると、ライブ演奏時に予め歌が録音された音源を使い、あたかも現場で歌っているようにパフォーマンスすることを云います。
海外ではこれを「リップシンク(Lipsync)」と言います。技術発達と共に起きた現象ですが、実は80年代から行われております。
録音された音源と現場において生で歌っている音の両方を一定の割合で使う場合もあれば、完全に録音の歌だけを使い、本人のマイクはオンになってないなんていう酷い想定の2通りの方法が考えられます。
口パクは、歌い手の力量やコンディションに左右されないパフォーマンスを見せるという興業者や歌手側の諸事情で起こる現象です。しかし本当にそれでいいのでしょうか?
ビヨンセさんのコメント主旨は、自分は完全主義なので当日の準備不足を理由にクチパクしたというのがポイントです。
しかし本当の完全主義ならリハーサルをキチンとできるスケジュールで大統領の式典に臨むのが完全主義に値する人に言葉じゃないだろうか?
ビヨンセさんに悪意はないと思うのだが、彼女のこの発言はプロとしてはかなり残念なレベルである。マネージメントにも非がある。結果的に言えば本当は出来るんだけど、色々あってやりきれませんでした・・という稚拙な話なのだ。
口パク対応のライブは、特ダンス系で多く見られ、K-POPのグループなどは、かなりの割合で事前に録音された音源を使いながら本人が生歌を被せて踊る方法でパフォーマンスを成立・展開させているのは公然の秘密のようなものです。事前録音された音と現場での歌の比率は様々ですが、ほぼ録音7~5:現場3~5という混合比でしょう。どうやら100%口パクというのはなさそうです。
ヴォーカル力があるという有名なグループでも事前録音の音源に生歌を被せてライブをしておりましたが、個人的には裏切られた感じが致しました。
ダンス系はダンスパフォーマンスが激しいため、歌を安定的に歌えないという事情があるのも事実です。
事の真偽は確認できない情報で申し訳ないのですが、私のアメリカ人の音楽業界にいる知り合いからジャネット・ジャクソンのライブで彼女の代わりにステージ脇で歌っていたという人物と会って話を聞いた事があると教えてくれたことがありました。その人物の発言によれば、PAから出ているヴォーカルの殆どの成分はステージ脇で歌っている人物の声で、ジャネットそっくりに歌える人間をオーディションで選んでいたということです。まだ現代のようにライブ全編をPro Toolsのような機械でシンクロさせられない時代だったのでアナログな方法を使ったという可能性も否定できませんが、実に興味深い話です。
私は昔ジャネットのコンサートを東京ドームで見た事があります。歌が全て自身のものだったかどうかは分かりません。マイクがオンになっていたことは間違いないので、彼女も唄ってはいたのでしょう。
しかし、もしそうだとしたら行った私には残念な気持ちが残ります。
ちなみにマイケル・ジャクソンの東京後楽園球場での初ライブにも行っておりますが、この時の歌は彼自身が唄っていたと思います。
さて、口パクについては特にダンス系や一部のアイドル系のライブに行く人の多くがあまり目くじらを立てていないようにも思えます。ひょっとしたら気がついていないからかもしれません。でも知ったら何となく釈然としない気持ちが残るでしょう。
例えばこういう例はどうでしょう?
クラシックのコンサートに行き、演奏者が全て事前に録音した音源を聞きながら演奏している振りだけのコンサートに行ったとしたら?
3大テノールと言われるルチアーノ・パヴァロッティ、プラシド・ドミンゴ、ホセ・カレーラスらが口パクしてたら?
坂本龍一氏のピアノコンサートに行き、彼が事前に録音した音源を聞きながら弾いている真似をしていたとしたら・・?
桑田佳祐氏や山下達郎氏、JUJUさんや西野カナさんが事前に録音したヴォーカル音源を利用してコンサートをやったとしたら?
歌舞伎の役者が事前に録音したセリフで演じたとしたら?
劇団の舞台が事前に録音したセリフで公演をしたとしたら?
多分次からそれらの公演には客が来ないでしょう。また事前にそうした情報がなくチケットを買わされたらあなたは怒りませんか?
昔のアイドルっぽいバンドなどは、本人たちの演奏では音楽が成立しないので、スタジオミュージシャンによって演奏を録音して発売しているものがありました。またライブでも本人たちの演奏では心もとなかったり音圧が出ないので、観客から見えないような位置でサポートミュージシャンが追加の演奏をしてライブを成立しているようなものもありました。それでも本人たちが演奏し、唄っていたので多少救いはありましたが・・。
しかしそういう発信側の倫理観のなさが当たり前になってしまし、観客もそれに慣らされているのだと思います。
少なくともライブとは人間技による芸と演出の集積であることが基本前提だと思います。殆どの観客は、高度な人間技とアーティストの存在感、そしてプロの演出に対して対価を払っていると考えるのが自然でしょう。
もちろん人によってはアーティストに会いたいだけとか一緒の場所に居たいなどの理由もない訳じゃないでしょう。それでも自分たちにはない高度な人間技があり、それを見る事が出来るからこそ、舞台と観客の空間を特別にする訳です。
昔、観光地のお土産が見た目をよくするために上げ底をして客が実際の量より多く見えるようにしたことが問題となりました。食品なら様々な表示義務が法律で規定されております。
もし、口パクという演出方法でライブをするならば、チケットにそうした表示をするべきでしょう。歌ではなく、ダンスを見に来て欲しいというのなら、そう観客に伝えるべきです。
それでも問題のない人は対価を払って行く選択をすることが出来ます。人の価値観は様々なのでそれでもよければ問題ありません。情報を理解した上で行くのなら個人の選択の余地が出来ます。
しかし現状、そうした点は曖昧にされ、改善の動きもありません。
レストランで結構いいステーキを食べられるほどの料金を取って見せるのであれば、そういう情報は事前に教えて欲しいとも思うのが人情じゃないでしょうか? 松坂牛だと思ったら違う牛のステーキが出てきたら、多分NHKのニュースに取り上げられるでしょう。
私個人の意見としては、事前情報がない中で行う口パク・ライブは詐欺行為だと思っております。先に示した例を見るまでもなく、ダンス系やK-POPはそうした行為が世間的に何となく許されて、桑田佳祐氏や山下達郎氏では(多分)絶対に許されないというのは全く間尺に合いません。
韓国でも口パクは議会で問題になっているという記事を読みましたが至極当然でしょう。
また発信側の倫理観も欠如が甚だしいと思っております。
口パクはアーティストの価値を自分自身で棄損する行為です。大勢を集めておいて自分はライブでは唄えない人間だと発信しているのと同じです。また芸で飯を食っている人間が芸のせめぎ合いを自ら放棄し、楽な方法を選ぶとしたらもはやその人物には特別な価値がありません。
もちろんダンス系ライブは長時間ダンスを持続させなければならないという肉体的負荷があり、通常のように唄うのが困難で負担が重い訳です。
であれば、演出上の問題で歌の入った音源を使用することを了承の上来場くださいと断ればいいのだ。別に恥ずかしいことじゃない。他の部分で客を魅了すればいいだけだし、客もそれで良いのなら問題ではない。
残念ながら、ライブには品質表示をするべき時代が来ているというのが私の結論です。
NHKスペシャル 終の住処はどこに~老人漂流社会を見て思う事 [徒然なるまま]
NHKスペシャル 終の住処はどこに~老人漂流社会を見て思う事
NHKスペシャルはいつも秀逸である。NHK組織に様々な問題が内在していてもNスペの質が維持出来ている限り大丈夫だろうと思っているくらいだ。
Nスペは過去にも様々な問題を先取りして提示してくれた。ワーキングポアの存在を知ったのもこの番組だった。
復興予算を恣意的に配分していた官僚組織に刃を剥いたのもこの番組だった。国家から予算を認可されている放送局としてこうした取り組みはギリギリの線だろう。
さて、老人漂流社会は痺れる番組だった。自分が50歳を超えており、高齢者に近いという感覚値もあったろう。あの映像に見えている現実は未来の私かもしれないのだと思うと、実際背筋が凍る思いだった。
現在でも高齢者が3,000万人を超え、この先も一定程度増え続け、社会保障への負担が国家予算に重くのしかかる時代の中で、私は自分の高齢者時代の生活をどのように設計すべきかを鋭く突き付けられた思いがした。
高齢者時代を人間らしく生き抜く最低限度の条件を矮小化して言えば、金、健康、人(家族・近親者)ということになるだろうか?
場所は金、もしくは人によって担保が可能だ。健康を失い、金がなく、人もなくなれば、社会制度だけが最後の砦となるはずだ。
しかし社会制度はそう容易く手を貸してくれる状況に無いというのが番組から受けるメッセージだ。痴呆が進み、自助努力で生きる事が出来ない人間を社会制度が助けられないなら、死を選べということになる。しかしもはや自分で死ぬ事さえ出来ないだろう。
私は、40歳を超えた時点で老後の人生にどの程度金がかかりそうかを試算したことがある。エクセルを使って非常大雑把な未来像を描いてみたのだ。
60歳を過ぎて、仮に男子の平均年齢まで生きると最低限度でも5,000万円程度以上の現金(流動資産)が必要だと分かる。
長きに渡って年金を積み立てた人はこの金額かそれに近い額を年金等で受け取れるはずだ。しかし今後の財政状況ではそれもかなり不透明だろう。
ちなみに私の父は、地道に地方公務員をやり続け、高度経済成長下で民間が父の数倍の収入を謳歌する中でも何とか自制心を保って地味に働いていた。
現在父は90歳だが、55歳定年時代に年金を貰い始め、これまでの受給総額は母の分を含めて約1億円を超えているはずだ。父親世代で一定の年金をずっと支払ってきた人々は皆さん同じような環境下にいるだろう。
父が現役時代に納めていた年金総額がどの程度か分からないが貨幣価値を勘案しても2,000万円以下だったろう。つまり、父(+母)の年金利回り率は500%ということなのだ。それでも母と二人で古くなった家で、どうにか世間並みと言える程度の困らない生活しかしておらず、とても裕福といえる環境ではない。田舎の普通の老夫婦という生活だ。
それでも自分の事を自分で出来る2人は高齢者の中でもまだ幸せな方なのだろう。
この世代は青春時代を戦争によって破壊された世代で、多額の年金は国家の罪滅ぼしという側面もあるが、国家財政的にみると、私の両親の世代が受け取る年金額は相当な負担額だと言えそうだ。
それでも我が家は中流の中のような家庭だ。一戸建てを持ってはいるが、周囲と比べても特別に豪勢でもなく、既に築45年を超え、両親の死と共に家屋の存続は難しいと思っている。土地も大した価値もないので、資産としては勘定にも入らない。
両親の貯蓄も大してある訳じゃないので将来、家屋の取り壊しの時期が来た時の出費は今から頭痛の種である。
私の実家は現行の年金制度による恩恵を受けているが、現在の彼らの生活レベルが過度の財政負担と表裏一体だとすれば、今後の高齢者の殆どは中流の中の生活レベルすらも維持するのがかなり厳しいだろうと想像できる。
老人漂流社会に出てくる老人は、普通の労働者だった人間だ。妻を持ち、まじめに働き、普通に生活をしてきた人々だ。
それがあるキッカケによって自分自身の生活を維持できない日が来てしまう。身寄りもなく、金もなく、住む所もなく、社会と他人に依存しなければ人生を支えることさえ出来なくなってしまう。
番組の解説に「歳を取る事は罪なのか?」とあったが、本当にそう感じざるを得ない時代になったな・・と思った。会社などでは年齢を重ねて役職が付かないままで居ると罪な雰囲気が出てくるが、自分ではどうにもならないことでプレッシャーをかけられるのは気持ちの良いものではない。
くしくも麻生副総理が、「さっさと死ねるように」発言をマスコミが報道し、高齢者の高額医療について言及してるため論議を呼ぶだろう。
彼の言い草はちょっと乱暴でかなりの非難と誤解を受けるだろうが、実は言わんとしているポイントは喚起すべき問題である。
マスコミは単純な言葉狩りをして状況や前後関係を報道しないので、発言趣旨を歪曲する傾向があるため相当な注意が必要だが、麻生副総理の言わんとしている問題は、必ず考えなくてはならない事なのだ。
ただ、あのレベルの地位の人間は、こういった微妙な問題に提起をする場合、言い方を考える必要があるが、どうも麻生という人間は育ちのせいか、言葉の選択に鈍感な人物のようだ。井沢元彦氏のように謙虚だがキチンと発言するテクニックを学んだ方が良いだろう。
彼の発言は結局命と金の問題を天秤にかけるのか?という反論や攻撃をされるのだろうが、残念ではあるが命と金の問題は密接に連携しており絶対に否定できない。
社会保障の負担に限界になり始めているのは事実で、継続できる方策を早急に考えねばならないのは誰にとっても明らかだ。
命を金と引き替えにして、命をないがしろにしろとは到底言えないし、個別ケースで対応の違う問題が数多くある点は重々承知しているのだが、私を含む高齢者予備軍や高齢者が、自分の寿命や資金能力を超えて社会に高負担を押しつける形で生きながらえる事が本来的に命を大事にしているのか?という疑問は常々私の中にある。
Nスペでは、男性高齢者に延命措置の希望を問う場面があり、彼は延命を望んだが、私は同じ立場なら逆を選択するだろう。これほどに個人によって考え方が180度違う問題なのだ。
正直言って、生きるとはなんだろう?という哲学的な部分にまで踏み込む問題は、本来議論に馴染まない。個人の宗教観や価値観や人生観は普遍的でなく、実は極めて個人的な問題だからだ。
私個人はベッドに長期間寝た切りになって生き続ける事を全く良しとはしないが、先ほどの例を上げるまでもなく反対の考えだって相当数あるだろう。
仮にこうした問題において、個人の選択をキチンと尊重するというのであれば、究極的な言い方をすれば、まず個人の力でそれを実現すべきとも言える。そして社会が関わるのはそれ以後ということになるだろう。麻生副総理を擁護するつもりは全くないが、彼の言わんとしている点はこの辺りにあったのだろうと推察している。
しかし、いずれの場合でも尊厳のある最期となるような社会制度は存在していて欲しい。
現在は社会に役に殆ど立たないからと言って国家が高齢者の生存や最期のあり方を放置したらもはや国家としてあり得ないだろうし、そんな国家を愛せと言っても若い人だって困るだろう。
しかしこの問題は全くの綺麗事では語れないという点は強調しておきたい。
私は以前から安楽死を個人が選択できる法制化をする時代が来ると予言している人間だ。医療技術の発達で寿命を超える生命を獲得し、自分自身でその行く末を管理できない高齢者を作りだしてしまった以上、自然に反するとは言え、正式な安楽死を考えざるを得ないだろう。
もちろん根幹的には安楽死を是としない。私だって自然に死んで逝きたい。論議も多い問題だと知ってもいる。宗教的観点が絡めば落とし所が全くないとも考えている。
しかし未来の社会構造が、高齢者の生存を自己責任だけでは維持できなくなり、国家も担保出来ないほどに社会保障の負担感が増してくるとすれば、尊厳ある人生の最期を自分自身が選択できる切り札を高齢者に持たせるというのは、尊厳ある最期を選択したいと望む人間には必要であり、そういう選択が出来る時代がやがては来るだろうと考えている。
自分の尊厳を維持しながらキチンと死ねる事が「特別な時代」になり始めているんだという感覚は恐怖に近い。
高齢者の死に方も格差社会となる時代が差し迫っているとも言えるのだ。
少子化もあって周囲に葬式を上げてもらって死後の始末をしてもらえる人がマイノリティーになる時代だって考えられそうだ。
今の20-30代の若者が自分たちの高齢者時代を差し迫った視点で感じる事は殆ど難しい。しかし彼らが高齢者と呼ばれる時代が来る時には、状況は更にひっ迫したものになっているだろう。
現在の若者が高齢者になるころ、生活を支えるのは自律的な資産だけになるだろう。インフレが進めば年金は自分が積み立てたものより遥かに価値を下げて手元に戻ってくる。そうなると私の若い時代よりも貯蓄や資産運用は高齢時の生活維持に必須条件となる。
日本の高齢化社会を単純な姥捨て山状態で解決しないためには社会の相当なる知恵が必要だ。
子離れできないヘリコプター・ペアレントが社会危機を誘う [徒然なるまま]
昨今は就職活動に親が関与する事例が多いと聞く。Yahooニュースによると親が子どもの代わりにプレエントリーを勝手に済ませたり、子どもに確認せずに会社説明会を予約することもあるという。なかには、合同説明会に同行する親もいるという話まで聞くとちょっと首をかしげてしまう。
ところで、私には子供がいない。だから語る資格がないと言われるかもしれない。しかし、子供の自立には親離れが確実に必要だと自信を持って言える。
私は東京で独り暮らしをするまでは親への甘えを自覚することが全く無かった。親元を離れ独り暮らしをすると生活面の様々な部分で自立を要求される。また大学を卒業し、社会人になり仕送りが無くなり、仕事を自分で決め、自分の仕事で得られる収入範囲で生活をし、人生そのものを自分で運営しなければならなくなることで自立は深まる。
特に人生で起こる諸問題の解決は、生活と直結するため真剣になるし、判断力、忍耐力が自然とつくようになる。
実は私の下の甥A君は某大学を卒業し、社会人1年を経た今年になって東京から実家に戻る決断をした。彼は結構良い大学を出ている。私よりも偏差値的には頭がいい。
就職活動はしていたようだが30社程度を受けて結果的にだめだったようだ。本来はミュージシャンになりたいという希望があって、社会人になってからはフリーターをやりながら自分で作品をまとめDVDを作って世に問うた。
製作費の30万円はバイトで稼いで貯めたらしい。ここまでは実に立派である。
しかし結局日常の生活を維持する金に困り果ててしまう結果となった。彼の兄に聞くとアパート代や生活費などを不定期に母親から援助してもらっていたらしい。それでも生活設計がままならなかったことになる。DVDは2000枚程度が不良在庫になって帰省時に破棄したようだ。いい勉強になっただろう。
こうした経緯を見ていると、社会人としてのA君の決定的な問題点が分かる。物事の優先順位をつけられないのと、自分の生活を自分自身で管理・運営出来ない点だ。
人間腹が減ると先に解決するのは腹を満たすことだ。食欲、性欲、睡眠欲と人間の3大欲の中で食欲と睡眠欲は贖えない。
現代においては戦後のように本当の意味で腹が減る事は稀だ。それでも毎日のオマンマを不断に食べるため人間は働いて対価を得ようとする。
社会人にとって仕事をしなければならない最大に理由はここにある。これは人間が猿人の時代から不偏の法則だ。
しかしオマンマの対価を誰かが補てんして腹を満たしてくれるようになると、人間は他の要素に目が向く。
A君のように自分の夢を叶える方向へエネルギーが向けられるようになるわけだ。
非生産者が非生産的活動を延々とすれば、社会にとっての損失は図りしれない。
A君が桑田さんのようなビッグアーティストになればいずれ社会的負債も解消されるかもしれないが、残念ながら音楽業界で20年メシを食って来た私の目から見ても、バットにボールが当たってホームランになるのはかなり難しいと言わざるを得ない。
結局のところ、自立的に生活設計すらできない大馬鹿野郎を1人生む可能性が大きくなってしまったのだ。
実家への帰還も母親の勧めらしい。そうなるとA君は自分の頭で何も考えず人生を歩んでいることになる。25歳にもなってこれではホトホト心もとない。
パラサイトが変身して社会に良い影響を及ぼすような人間になる可能性を否定はしないが、確率面だけで例えれば殆どゼロである。 ゼロでない限り可能性の追求を了とする考え方もあるし、私のように可能性を残しながらも対応方法を考えるべきだという人間もいる。
いずれにしても、結構な偏差値の大学を出ている人間でも社会に出て自立出来ないのは、親の過剰な干渉が1つの原因だと思わざるを得ない。こんな連中が増殖したら日本社会は底辺の力を失うだろう。
親として子供の苦労を見過ごすのはかなり胆力のいることだろうと思う。私の親も、私が安定した仕事を得るようになってから、どれほどまでに心配をし、子の動向を我慢し続けたか泣きながら語ってくれたことがあった。
しかし私は親が我慢をして干渉しれくれなかった事に本当に感謝している。
私は自分の夢を叶えるために仕事面で非常に苦労をして、収入もままならない時期を何度も経験したことがあった。
しかし苦しくても親を頼るのは犯罪を犯しそうなほど追いつめられた時だけと決めていた。それは親からも言われていた。最後の防波堤があることは心の支えになったが、そこに頼るのは本当に最後の最後という覚悟があった。
幸いそういう事態にまではならず、なんとか自分の裁量で問題解決し、今日まで生きる事が出来た。正直かなり辛い時期もあったが、あの苦労を乗り越えられた事は自分の人生の糧になっている。
「かわいい子には旅をさせよ」という格言があるが、まさにその通りである。
親が子供に手を貸すのは容易い解決方法だ。しかし見守って転びながらも自分で立ち上がる子供を育てて社会に出す事が本来の親の義務だと思う。そういう人間の集積がやがて国家を強くしてゆくと信じている。
安易な助けは結局のところ社会にとってもマイナスなのだ。
確かに現代の就職活動はかつてないほど厳しい。私の時代とも全く違う様相だ。それでもあと40年も50年も生きてゆかなければならない今の若者たちには、時代時代の苦難を乗り越える力を持ってもらわなければならない。親はいずれ死んで行く。助けはいずれ無くなるのだ。
それなら助けは早めに無くなった方がいい。それ故社会のためにも親の子離れは早い方が良い。
腹の減った事を経験した事がない奴にロクな奴はいないという事を云った人もいる。戦後の腹の減り方と今では違うだろうが、一理はあると思う。
モンスターペアレンツなる造語の出現もこうした傾向から出た現象だろう。公立学校に対してそれぞれの親が子供の意思を超えて個別の要求を実現させようとしたシワ寄せだと思う。
何十人もの生徒を1名の教員で抱え、カスタムメイドのサービスを次々と要求し、その実現が当たり前だと考えている親の方が居たとしたら、かなりの問題があるんじゃなかろうか?と勘ぐらざるを得ない。
私が子供の頃はそんな変な親は見たことがない。
それぞれ不満もあったのだろうが、一定範囲内にそれぞれが納めて暮らしていたのだと思う。
何故この時代になって顕著になったのか良く考えてみた方がいいだろう。豊かになり、腹が減らず、自分の周辺だけをことさら小奇麗にすればいいような風潮になったことに遠因がありそうだ。
もちろん公立学校の教員の質の問題だってある。
事は一面的ではないので、それぞれが自分たちを律して対応し、調整するしかないのは自明の理だろう。
私の意見には多くの反論もあるだろうが、私は早期の親離れが本人、ひいては社会のためだと信じている。パラサイトから
体育会系という上下関係を考えてみた [徒然なるまま]
体育会系という上下関係を考えてみた
私は体育会系と呼ばれる人たちが生息する世界の中で尊重されている上下関係が相当な意味で苦手である。
正直言えば嫌悪感がある。
ただ断っておくが体育会系が内在する一定部分には尊敬の念を持っている。礼儀作法や集中力、団結力、先人への尊敬の念などだ。
自分が仕事をしている時にプロジェクトを進める上で体育会的な発想や対応が必要だと思う事はしばしばある。
私が嫌悪感を抱くのはそこではなくて、体育会系上下関係に潜む人間関係に及ぼす力のバランス感覚の悪さなのだ。
先ごろ、大阪で体罰に起因する自殺の問題が起こった。中学生で命を絶つという決断に至る彼の想いを想像すると哀しいなんていう言葉では全く足りない。
しかし、学校現場が生徒を殺す場所になってしまっていたのは決して偶然じゃないと思う。
スポーツを中心とする体育会系を信奉する人々が封建的な上下関係を是としているのにはついては理解出来る部分もある。
スポーツを戦と考えている人には特に封建的な上下関係を必要だと思うだろう。
軍隊的な発想で戦をする世界で強い結束を必要とする場合、一定程度の強制による秩序、序列の維持が必要だと考えられているからだ。
アメリカの軍隊の育成過程で育成者が下士官を罵倒する場面を映画などで見た人もいるだろうが、軍隊では命令を絶対的に聞く人間を生産するため一旦、徹底的に人格を壊そうとする。実弾の飛び交う中で上官の命令に反射的に反応させるための方法なのだが、それがスポーツという場違いな分野に無批判に再利用されているのが体育会系の人々が行っている手法なのだ。
敵を殺し、勝利を収めることを目指す軍隊という特殊環境の中で、強制力が働かないと組織運営や人材の育成が難しいという実態があることまでは否定するつもりはない。
戦争のような異常環境下で絶対的な命令遂行実施と結果を得る事は民主的な方法では成し遂げられないからだ。
だからある目標に一丸と向かう場合、封建的命令を組織に施す事が必要かもしれないと考える部分も無いわけではない。
しかし軍隊のような特殊環境と目標を持つ組織ならいざ知らず、いわゆるスポーツ組織や応援団、教育現場、一般企業が統制方法として軍隊を系譜としたような封建制度な方法で人間を育成、管理する点については異論がある。
この違和感の根本には体育会的上下関係の根本思想が朱子学にあり、その系譜を引いた日本陸軍の影響の残影を感じるからだろう。
私は体育会系の上下関係を支持する人々の中で、上位に立つという事を本質的に理解している人間に会った事がない。
それが異和感を抱く理由だ。
体罰や威圧による統制方法は、下の人間が反撃・反発・反論・抵抗できないという大前提がある。
上位者に対する下位者の批判や意見をキチンと受け入れない風土も体育会系の特徴だ。こうした環境は歪以外の何物でもなかろう。
元巨人の桑田投手が指摘するようにこの統制方法は“極めて卑怯者の方法”だと表現する点はこうした背景があると考える。
結局のところ、体育会系の組織運営方法は、上位者にとって極めて運営し易い構図がある。基本的に論理的でなくても運営可能で、言いがかりのような命令でも有効だからだ。
年齢と地位と経験が全ての上位に立った統制根拠となっているから、下の人間にはそれを超える方法や手段が無い極めて一方的で異常な環境となる。
しかしこの異常環境の線引きは、組織の上位者の考え方によって可能でもある。人材育成や能力開発に純粋に有効で論理的な命令はともかく、体育会系に一般的な命令には上位者の恣意がかなり多く含まれている。
場合によっては個人的な捌け口による命令・指令、懲罰が含まれる場合だってあろう。
これは体育会系を経験した多くの人に共通するものだろうし、それはかつての日本帝国陸軍を彷彿とさせる悪弊に似ている。
このような点について体育会系の上位者は殆どわきまえていない。それどころか必要であるとさえ言うだろう。私は体育会系と呼ばれる人たちが尊重する上下関係に賛同出来ないのはこうした部分だ。
はっきり言えば、体育会系の封建環境は上位の人間によって居心地が良いだけなのだ。
先輩風を吹かせて下位の者に意見を許さない環境にいる上位者は、本当に人を指導できる資格があると感じているのだろうか?
過日、小樽商科大学(北海道小樽市)で、飲酒したアメリカンフットボールの一年生部員が飲酒中毒で病院に搬送されたニュースがあった。毎年春になると大学の新入歓迎コンパで頻繁に起こる現象だ。特に体育会系部員の新入者の被害者は顕著である。
昔と違って酒を強制的に飲ませることへの社会的な規制が働き易い時代でもまだこんな不幸な事件が起きている。
そもそも学生の身分で上位に立っている連中はたかだか20才前後のハナタレ小僧の連中である。
上に立って下の者に対して権力を振るう事が一体どういう意味と責任を持つのかについてキチンと教育を受けた事もないだろう連中の仕業なのだ。
酒を強要して飲ませることで起こる事故や体調への配慮もできず、飲む事=忠誠心の証しだというような大時代的な現象が残念ながら世界的に現存し、その存在そのものを否定するものではないが、飲む事を忠誠心の証しだと強制されるのは飲めない相手にとって地獄であるという程度の感性は持って欲しい。その苦痛を超えられないと仲間として認めないという神経はどう考えても幼稚で異常だろう。
また大学時代、某大応援団と朝夕最寄りの駅遭遇する時代があった。20歳にもならないハナタレ小僧の先輩対して1歳も違わない下級生が100m先からでも先輩の姿を見た瞬間に大声で挨拶している光景をみて、なんと前近代的な人たちだろうと思っていた。
先輩と言われる人々も、その直前まで同じような挨拶を強いられていたはずで、先輩風を吹かして過去の気晴らしにもなっていたのだろう。連中の統制方法の幼稚さは先輩から受け継いだ伝統という何の論理的根拠もない方法を無批判に継続していることで証明されていると言ってもよい。
しかし社会に出てみれば1歳の年齢差なんて何の価値も意味ない。年上が必ず年下を凌駕出来る訳ではないのだ。実力と年功序列は全く別なのが社会の厳しい所だ。そういったリアリティーがない統制方法を是としている体育会系の人々は、ファンタジーの世界の住人のようにさえ見える。
新入生の死者や自殺者や精神的に傷つくような人間が出るような暴力的環境を平然と是としているような連中が伝える伝統というのは一体なんなのだろう?
ものの哀れを覚えてしまう、
体罰はこうした環境下で平然と起こる。愛情のある体罰を声高に言う人もいる。しかし桑田元投手が言うように受ける方は全く愛情何ぞ感じないというのが大多数だろう。反撃も出来ない一方的な圧迫環境下でスポーツが楽しいはずもない。よく近所の小学生の野球チームの練習を見ているが、指導しているおっさんたちは子供相手に何をあんなに怒鳴っているんだろうと思う。
スポーツを学ぶ環境は、あんなに怒号のする中でないと成立しないのだろうか?
世の中に殴らなきゃ分からないバカが存在しているのは事実である。しかしこと学校のスポーツ現場での体罰は、そもそも目的や意図が分からない。
高校野球だろうがバスケットの全国大会だろうが、あんなもん、所詮部活じゃねえかってことなのだ。
教育の一環であるはずの部活が勝ちを意識して高校の名前を高めようとする余り、こうした事を許して来たのだろう。
今回の大阪の事件で、スポーツの体罰や指導者の資質について相当論議が起こっているため指導方法について相当な転換を余議なくされるだろう。
でもそれで良かったと思う。いままでが異常過ぎたのだ。
プロ野球でさえ未だに監督が選手を平手打ちするらしいが、そもそも目上だからと言って社会人の大人を殴るというのが業務環境下で是とされていることもかなり異常だ。
会社だったら完全にパワハラと言われる時代だ。
体育会系の持つ根本的な良い部分を否定するつもりはないのだが、体育会系の持つ不要な悪癖はそろそろ終わりにすべき時代だと思う。
ネットプロバイダー不要の時代を感じたスマホのリアル [徒然なるまま]
ネットプロバイダー不要の時代を感じたスマホのリアル
スマホを私が使い始めるということは、かなり一般的になってきたということだ。若い頃アーリーアダプターだった私は、初期製品が後発製品によって陳腐化する経験を何度も経て来たので、新製品に手を出さなくなった。ipadも他社から様々な類似製品が出る中で、更にアップデートした製品が出るため直ぐに陳腐化してしまう。発展途上の製品を楽しむという人も多いだろうが、私にはそんな金銭的な余裕のないので、一定程度成熟した段階で手を出す事にしている。
そのスマホも一定程度の市場になると製品も多く、サービスも多様になるためユーザーとし環境が整う。そんな2012年冬、auショップでXPERIAを買う。
スマホの本体って7万円もするんだね。分割払いだが、結構な家電製品買うのと同じじゃんって感じだった。
また、料金もLTEだとサービスが少なく、なんだかんだで月最低でも1万円かかるということが分かった。加えて無料通話がないので、通話は30秒21円が加算される。これには参った。
私はガラ系の時、月額約1万円程度の携帯使用だったので、通話料分が加算されてしまう訳だ。
しかし昨今の若い人は通信費にどれだけ金を使っているんだろう?と思う次第だ。私の頃の電話代はせいぜい3500円程度だった。
そしてスマホを買って約1カ月が経過した。
ゲームは全くやらなかった。アプリのダウンロードも殆どしなかった。だいたい電池が持たないので連続使用をする際、常に電池の残量が気になるのは、利用者として精神的に良くない。Ipadにしろ、モバイルパッドは電池容量と持続性が今後のカギかなと思っている。私の感覚値では、バイルパッドでゆっくり本を読むというような生活習慣が身につくにはもうしばらくかかりそうだと思う。
たいたい、出版界の邪魔に合って図書館がレンタル配信するような時代にはまずならないと思う。図書館好きの私にはモバイルパッドで本を読む根拠がますます無くなりそうな気配だ。
モバイルパッドだが、オフィス系のソフトが使える点が加味されれば、いずれPCの変わりになるだろうし、そうなったらノートPCの変わりになるだろう。
私のスナホの使用用途はネットへの接続がほとんど。Twitterやfacebook、また外出時の調べごとだ。それでも業務に耐えるようなネット使用はスマホでは代替できない。先ほど触れたがスマホにしろモバイルパッドにしろ、業務に耐えるようなものに昇華しないと更なる普及は望めないだろう。
そういう意味では現代はPC、ノートブック、スマホ、ipadなどが混在し、過渡期といえる時代なのだろう。
ネットプロバイダーが不要の時代がそこまで来ているのはかなりのリアリティーを持って感じられた。だいたい私の家にはこの10年間、インターネットの回線を一度も引いたことがなく、スマホを買った事で久し振りに家庭の中でネットにつながる環境になったのだ。
(いままでどうしていたかというと、通常会社にはネット回線があるので、平日は殆ど不便がない。週末は必要ならネットカフェに行っていた。なければないなりに暮らせるものなのだ)
私にとってスマホってモバイルPC替わりなんだということが分かった。しかしWORDやEXCELは使えないので、あくまでも私用簡易PCなのだ。
電話についてはスマホでは料金が気になってほとんどしなくなった。私のように50歳代の人間だと知り合い全員がスマホじゃないので、LINEなどの無料通話アプリを使用することはない。
若い方たちならもっと普及率が高いかもしれないが、無料通話アプリが一般化されるのは、スマホの普及が7割を超える位のボリュームがないと無料通話アプリは一般的な意味で使えないかもなあと感じている。
結局電話についてはWILLCOMを別途契約した。それまでの携帯電話の使用料の15%アップ程度で済むからだ。この程度なら他の経費をリストラすれば十分対応できる。
スマートフォンと言われているが、結局電話での使用には向かない代物になったようだ。
友人連中に聞いても、類似した使用方法が主だった。
しかしスマホの登場でネットプロバイダーが不要の時代になっていると感じた。この影響がこれからどのようになって行くのかは注視すべき案件だろう。
日本でやれるのか? サラリーマンの40歳定年制 [徒然なるまま]
日本でやれるのか? サラリーマンの40歳定年制
このニュースを見た時、直ぐに頭に浮かんだのは、お隣の韓国のことだ。韓国は現在でも40歳定年制に近い雇用習慣がある。
韓国では一般企業に勤めると40代前半で幹部(通常は部長以上)になれない社員は順次退社してゆかざるを得ない社内空気になるのが韓国企業内の一般的な風景だ。
仮に40代後半から50代まで幹部以外の地位で会社に残ったとすると“極つぶし”と云われ相当肩身が狭い環境下になり多くは自然と退職への道を進む。
さて、韓国で退職した連中はどうなるのか? 元の会社の関係会社や取引先への天下りに成功すればかなりいい方だ。
退職後の人員を全て吸収できるほど韓国には受け皿がない。従って多くは自営業に転身する。
一般的なのは飲食店などだ。韓国料理屋店や屋台の類だ。韓国では大規模なリストラがあると屋台が増えると云われている。その屋台経営も5年以上継続出来るのは半分にも満たないという。これは大企業が飲食店のチェーン展開などをするため小規模経営を淘汰してしまう面も影響している。
そういう意味で、韓国はセカンドチャンスがほとんどない国だ。国民自身もそれを認めている。私の会社にいる韓国人スタッフでも、アカラサマに韓国に戻るのは嫌だと云い放つ人だっている。
韓国社会で一定の路線を外れると少数の例外を除いて非常に厳しい生活状況に陥ってしまう。そのためどうしても利己的にならざるを得ないという社会環境なので、日本人からすると事故評価や金銭面に粘着質で、相互的利益を考えない個人主義的な人材が多いと感じるが、背景にはこうした部分があると思っている。
よく韓国の人と仕事をすると、個人の不透明な金の動きに困惑させられることが多い。いわゆる横領や使い込みだ。これらもこうした社会情勢と無縁ではない。
仕事を通じて韓国の中小企業の役職者が多額の経費を個人用途に散在する姿を見たが、その多くが不動産や固定資産につぎ込んだり買ったりするケースだ。
韓国の企業の上層部のモラルハザードは目を覆うものが多いが、早期退職が一般的であるため、地位のある間に自分個人の経済地盤を固めて老後に備えようとする利己的な行動を伴い、社会環境を悪化させ、結果的に国家全体を脆弱にしてしまっている。アダム・スミスの言う利己的な見えざる手は、全体利益に貢献しないのだ。
もちろん日本だって彼らに負けないような詐欺師のような連中がいない訳じゃないし、韓国でも日本人の目から見ても真っ当な人は沢山いる。
しかし日本のように企業がある程度のレベルで従業員の将来設計を守ってくれるような雇用環境があるからこそ、日本人の多くのサラリーマンは大規模な横領をしない傾向が強く、将来設計を見据えられる代わりに会社への一定のロイヤリティーを持つ。
またこれらによって利己主義でなく相互主義を維持でき精神的余裕を持てる環境があるからだ。
しかし前述のような理由で韓国にはこうした余裕がほとんどないため、どうしても個人の生き残りを優先して横領や不正蓄財に走る心理状態を醸成してしまう。また横領を横領と思っていない人も多いから困る。
韓国ドラマが最初のブームを迎えた時、個人ブローカーのような連中が韓国の放送局との間に入り込み、ドラマが異常な高騰した時期があったが、それにはこうした連中があぶく銭を稼ぐために入り込んだからだ。
実際金以外に目的のない荼毘すべき連中だった。
また実現性のない企画を日本側に持ち込んで詐欺行為に及んだ連中もおり、私もそれの被害にあった事がある。
もちろんこうした被害にあった私の方にも、日本人的な感覚で人の紹介だからということで相手を信用するという無知さがあったからで、それ以後は随分と慎重になったので良い勉強になった。
さて、もし日本でサラリーマンの40歳定年制を敷いたらどうだろう。もちろん優秀な連中は問題ないだろう。40歳定年制で人材が流動性を持ち上手く行く部分があることは否定しない。しかし多くは普通の能力を持った人間ばかりなので、一般的には市場に人材が溢れ、企業側の方が被雇用者側より有利になり、実際は想定よりかなり社会的な混乱が起こるだろう。
早期定年となれば、個人個人の実績が自分の将来の価値を決めるため、会社への忠誠心や会社のために自分を犠牲にしようなんて思わないだろう。サラリーマンの中に勝ち組・負け組が今よりも顕在化し、中間層がさらに無くなり、結局のところ社会全体で見れば過度の競争は負の面を大きくさせるのではないかと思っている。
韓国の例を見ても、早期退職や老後の不安定さによる社会不安は、若い連中にも及び、成功のトラックに乗ったものだけがそれらしい生活を送れる社会になる危険性をサラリーマンの40歳定年制が孕んでいることは指摘しておきたい。
仮に政治による一定の配慮があればカオス化に歯止めをかけられる可能性はあるが、それでも終身雇用に比べて混乱度合いは大きくならざるを得ない。
サラリーマンで収入が増えるのは概ね35歳以降からだ。そのメリット享受し確立できる前に退職して自立となると、20代から30代前半で相当な給与をもらえるような会社で、尚且つ個人のキャリアアップがキチンと出来る職種で働かざるを得ない。そんな会社が日本にいくつもないのは誰でも分かるだろう。
当然会社内は個人主義的になり、組織としてはチーム形成が成り立ちにくく、知識の蓄積や情報の共有は個人社員への還元なしでは成立しない。
よくある外資系の社員環境のようになる訳だ。サラリーマンが全員傭兵化したら、日本のような“和をもって尊しとなす”という宗教にも似た観念にぼんやり覆われた我が国は崩れ去る可能性だってある。“和をもって尊しとなす”を否定する向きもあるが、功罪とりまとめても日本社会にはこの思想が1400年以上染みついている事実は否定できない。
現在のアメリカの社会で過度な競争社会と不平等とも言える財の配分の馴れの果てに起こっている事が何かを我々は毎日見ているではないか? 富の偏在に憤り、自由資本社会のアメリカ人の99%が持たざる者たちとしてWALL STREETを占拠した事件は記憶に新しい。
自由を標榜するアメリカ人ならこうした現実を素直に受け止めるのが国民の思想としては筋なのに、やはり過剰な富の偏在に怒りを表すではないか。
私は自分のこうした考え方が、意図せず社会主義的で、ともすれば共産主義的ではないか?と疑問を持つこともあった。
そんな中、ノーベル経済学者で世界銀行の上級副総裁を務めたJ・E・スティグリッツ氏が書いた「世界の99%を貧困にする経済」を読んで衝撃を受けた。
彼はアメリカの現状は完全な不平等社会であると称し、政治による富の再配分と適切なガバナンスを欠いていると断言したのだ。
私はアメリカ人の多くが自由を信奉し、特に共和党に多い個人主義が基本的概念の主流だと感じていたのだが、彼は社会の安定的形成には一定の再配分構造がなくてはならず、収入レベルと社会貢献の価値バランスを大きく欠く現在のアメリカ社会は早晩衰退すると言及しているのだ。
私は悪平等を決して良いとは思わない。人間は一定の努力貢献に基づいて報われるべきだ。生活保護費をもらったその足でパチンコに行って一攫千金を狙うような短絡的な連中の存在のために、他の大多数が汗を流すのを全く良しとも思わない。
あの大阪の生保護受給者の実態を見るにつけ憤る人も多いだろう。ああいった極端な連中はキチンと是正すべきとしても、限られた能力と資質で人材の多様性を維持するためには、一定程度の社会的保護と再配分がなければ社会が適切に成り立たなくなるのは、資本主義・社会主義の歴史的経過を辿っても明らかだと思っているのだが、アメリカ人ノーベル受賞者も同じような考えを持っていることに少なからず驚いた。
全員が自由主義の中で完全なる自立を前提で社会構造を組むのは机上の空論だということだ。
EUが上手く行っていない最大の理由は、最初からEU域内の国家間の富の再配分について規定しなかったからだ。独立国家の集合体の富の再配分は、GNPの大きい国(つまりドイツ)に不利に決まっており、そういった点に専門家の連中は薄々気がついていたのだろうが、当初から統一を進める事を先行してしまったために、キチンと規定し国民に説明をしなかった事が一連の混乱の一因であるのは言うまでもない。
日本が1つの国家として成り立っている根本要因は、一定程度の割合で国家内に富を再循環させているに他ならない。
道州制を謳う政治家が多いが、結局富の偏在をミニマムにすることを前提にした制度設計をしない国家は1つの単位にならないし、国家としての力が発揮できない。
国家は地域差や個人の能力差を一定程度内に納め、ガバナンスが効く範囲で競争を促すような「差配」を政治によって調整できなければ存在出来ない。
アメリカは既にこの要件を満たさなくなっている。EUも同様だ。中国もそのレンジに入っており、この格差は不平等は縮小する気配がない。
さて40歳で定年を迎えて独立し、仮に65歳までの25年間までに更なるキャリアアップできる人間なんてサラリーマン人口の10%以下だろう。自分でも思うが、だいたいサラリーマンなんて自営・自立を出来るほどの特殊能力がないから総合力の一員としてやっている面もあるのだ。
日本にベンチャーが根付かないのはこうした背景もあるだろうが、サラリーマンの自立化を実現してもベンチャー設立に対して銀行融資などの金融面が追いつくかは甚だ疑問だ。
それ故日本で40歳の定年制を行ったら韓国のように無数の飲食店や路上販売者が乱立するんじゃなかろうか?と思う次第だ。
個人貯蓄で出来る事業なんぞはたかが知れており、銀行が貸してくれないのならなおさらだ。
韓国で退職者などによって無数の飲食店が増えるのは、短時間で事業収益からキャッシュを手に入れる方法がその位だからだ。
もちろん40歳の定年によるメリットを享受できる人材もいるにはいるだろう。しかし大半の人間は韓国を見てもわかるように平均以下の暮らしを強いられてしまう。
総論として40歳の定年制は日本人の社会には全く向いていないと思う。職の自由化・流動化という人もいるが、それにこうした構造変化に対応できる連中はごく少数派だろう。その変化に対応できない人材が溢れることで結果的に社会全体が落ち込む恐れもある。
日本人全員がイチローや桑田佳祐のような能力のある人間じゃないのだ。
そして仮にグローバル化への対応で、それを余議なくされるとすれば、日本人サラリーマンは就職時点からかなりの覚悟を必要とする人生を背負うだろう。若い間に家を買って建てて、車を買うなんていうプランも相当慎重にならざるを得ない。
韓国の受験戦争が日本の比じゃない理由はこうした面の反映だ。高級公務員や大企業のエリートにならないと本当にキツイ人生設計が待っているからだ。
果たして日本人はそういう国の国民になりたいのだろうか?
2012年コンサートリスト [徒然なるまま]
2012年コンサートリスト
2012年は人生でも数多くのライブに行った年になった。2
0代にワーキングポアだった私にはとても行けなかった事が反動として蘇り、今頃になって急に行きたくなったようだ。
それ故2012年は自分で金を払ってでも見たいライブだけに資本投下した。その変わり、別の財布をギュッと締めた。
リストの中には年齢的に来日が最後になりそうなアーティストや昔見に行けなかったのでやっと見ることが出来たというアーティストもいる。また若干だが仕事絡みで見たものもあるが、圧倒的に数は少ない。
八神純子さんは今回が初めてで、都合3回も行ったが、衰えを知らない彼女の唄はその価値がある。
山下達郎さんはライブに行き始めてから早くも32年が経過した。若い頃から彼のライブだけは皆勤賞なのだが、思えば長い様な短いような時間だ。
原田真二さんは1979年の武道館以来だったので実に33年振りだった。
吉田拓郎さんは1979年の篠島アイランドコンサート以来だから同じく33年振り。
ユーミンは1991年の天国のドア・ツアー以来だから21年振りだった。
高中正義氏は、井上陽水氏と1979年12月に武道館で行ったクリスマスジョイントライブ以来で、ソロライブには行った事がなかったので、実は初めてだ。BSフジで放送されていたライブを見て行きたくなった感じだ。
Cindy Lauperは1989年のA Night To Remember Tourを横浜アリーナで見て以来だから23年振りだ。
東日本大震災時に渋谷でライブをやっていた彼女は、事の他3.11への想いが強い。
レニークラビッツは1992年の中野サンプラザの初来日以来だった。実に20年振りだ。
YES、ロジャーダルトリー、ASIA、マイケルマクドナルド、ボズスキャッグスは初めて見た。
由紀さおり&ピンクマルティーニはどうしても見たかったのでツアーをしてくれて助かった。
トレヴァーホーン&ロル・クレイムは心躍る組み合わせで楽しかった。80年~90年代を彩ったトレヴァーホーンやクレイムは憧れのプロデューサーだったので今回の来日を体験出来て本当に嬉しかった。
The Beach Boysも初めてだった。もう高齢者ミュージシャンだがパワフルで驚いた。
桑田さんは5年前のソロツアー以来だ。ガン手術を乗り越えた彼のステージは本当に素晴らしいの一言だった。
こうして見ると20-30年振りに見に行った人が結構多い。自分も50代になるとこんな時間軸なんだなあとちょっと驚く。
① 1月14日 The Ventures Sweet Basil六本木
② 1月14日 中シゲヲ他 下北沢440
③ 2月9日 テデスキトラックスバンド 渋谷公会堂 8,500円
④ 3月10日 Cindy Lauper 渋谷Bunkamura 11,500円
⑤ 3月15日 東日本チャリティーライブ(原田真二他) 渋谷AX
⑥ 3月24日 K-POP Good Friends東京両国国技館
⑦ 3月25日 ソ・ジソブ ファンミ 東京両国国技館
⑧ 4月6日 山下達郎 Peformance2012-13 中野サンプラザ 8,000円
⑨ 4月7日 レニークラビッツ 東京ドームシティ 9,000円
⑩ 4月19日 YES 渋谷公会堂 9,000円
⑪ 4月23日 ロジャーダルトリー(Ex.The Who)国際フォーラムA 10,000円
⑫ 5月26日 八神純子 森のホール21(松戸) 5,500円
⑬ 6月5日 2PM 横浜アリーナ 招待(8,500円)
⑭ 7月13日 井上陽水 国際フォーラムA 8,500円
⑮ 7月21日 八神純子 土浦市民会館 5,500円
⑯ 8月3日 原田真二 浜離宮ホール 6,500円
⑰ 8月5日 トレヴァーホーン&ロル・クレイム Billboard Tokyo 10,000円
⑱ 8月16日 The Beach Boys QVCロッテスタジアム 12,000円
⑲ 9月25日 ASIA 渋谷公会堂 9,000円
⑳ 10月6日 高中正義 日比谷野外音楽堂 7,000円
21 10月31日 由紀さおり&ピンクマルティーニ 渋谷Bunkamura 8,400円
22 11月1日 ドナルドフェイゲン、マイケルマクドナルド、ボズスキャッグス 武道館 12,000円
23 11月6日 吉田拓郎 NHKホール 9,000円
24 11月19日 八神純子 葛飾シンフォニーホール 6,000円
25 12月11日 松任谷由実&プロコロハルム 人見記念講堂 9,800円
26 12月30日 桑田佳佑 横浜アリーナ 8,500円
2013年はここまで行けないと思います。とりあえず2013年6月(だっけ?)のヴァン・ヘイレンだけは行くのが決まっている。
価格.COM経由で液晶テレビを買って思った事 [徒然なるまま]
価格.COM経由で液晶テレビを買って思った事 2012年12月28日
この冬7年ぶりに液晶テレビを買い替えた。HDDブルーレイレコーダーを買った事がキッカケだった。私の現在のテレビは2005年に買った37型のアクオスなのだが、当時24万円超の値段だった。ボーナスを叩いて買った訳だ。しかしHDDブルーレイレコーダーを買ってHDMI端子に接続するとテレビ側で認識しなかった。こういう事情に詳しい人間に色々な案を出してもらって試したが残念ながら新しいHDDブルーレイレコーダーはアクオスで見ることが不可能という結論に達した。
従ってまだ普通に使えるアクオスを諦めて液晶テレビを買う事にした。私は使い倒すタイプなので滅多に使える状態のものを手放す事はしない。従ってアクオスは春に引っ越しをする甥に無償提供することにした。2005年の亀山工場製造の製品は結構良く出来ているからまだ4-5年は使えるだろう。残念ながらHDMI端子は死んでいるが・・・。
しかし予想外の出費になるので、出来るだけ安く手に入れたいのが人間の心理だ。
価格.COMで調べると様々なタイプが様々な値段で出ていた。
私は目指す機種を絞り、ビックカメラに実機があるかを確認しに出かけてみた。
価格に大きな違いがなければビッグの方が目の前で確認して購入できるので安心だからだ。ポイント還元もある。
幸い実機を見る事が出来、なおかつ価格.COMとビックカメラの価格とも比較出来た。価格.COMの方 は40型で6万6千円程度(税込)だ。
私の目指す製品は価格.COMとビックカメラで1万6千円程度のかい離があった。ポイント還元もあるが、現状の支出幅はこのままだ。
しかし7年前、37型が24万円だったのに現在は40型で6万円台だ。大手電機各社がテレビ事業部の赤字に苦しんでいる実態を消費者になり、現実的に肌で感じるようになった。
そうした傾向を反映してか、躯体は以前に比べて安普請だ。テレビというより液晶パネルに足がついているような感じだ。
原価を下げるためパーツ類も以前より質を落としているようなので、私が買ったアクオスのような耐久性は現代のテレビには無いとも云われている。それでも私には十分だった。
私の助言者は、現代の液晶テレビは5年程度が耐久性の限界なので余り高額が液晶を買うと損した気分になりますよと云う。
私はテレビを通販で買った事がない。それ故製品が事故品だったり展示品だったり新古品だったりする可能性が否定できず、若干躊躇した。しかし消耗品だと割り切って価格.COMの店を利用することにした。
ネット上のユーザーの利用コメントがどこまで客観的で正確かも分からないが参考にはした。
注文し、金を振り込み、物が来た。
結果としては問題なかった。破損もなく、保証書もあった。躯体も店で見たとおりだった。今回価格.COMで利用した店には一定の信頼を置いてもいいのかもしれない。
日本はデフレである。30年余り前に300円だった吉野家の牛丼は未だに360円だ。液晶テレビは1/4の価格に下落。経済成長率を考えてもこの価格はちょっとおかしい。結局廻り回って世間は不況感に苛まれている。
消費者としては安いに越したことはない。しかし世の中が廻るための適正価格を下回ると真綿で首を絞めるように自分に降りかかってくるのが現実だ。金は天下の廻り物というが、本当にそういうことなのだろう。電機メーカーがテレビ事業で採算が取れない実態は私の購入価格を見れば一目瞭然だ。
今回テレビを買ってそんなことを考え感じた次第だ。
スマホの出現で、プロバイダーを経由せずとも簡単にネットにアクセスできるようになり、ipadのような液晶端末はまもなく現在のPCの役割をTAKE OVERするだろう。
スマホとipadのような液晶端末に境目はないので、使い勝手だけが境界線になるかもしれない。会社のPCはやがて全て液晶端末になるだろう。
私が次にテレビを買おうとする時代は、もはやテレビという概念がなくなり、液晶画面端末の一部機能としてテレビがあるみたいになっているのだろう。でかいipadがテレビであり端末であるわけだ。
もはや電機メーカーの領分を完全い越えてしまっており、今後の電機メーカーの経営戦略は全く白紙の発想が必要でありそうだ。
Singer Song Writerと初音ミクの組み合わせで曲を書いてみた [徒然なるまま]
Singer Song Writerと初音ミクの組み合わせで曲を書いてみた
イッキに攻めちゃう! ~アジアドラマチックTVイメージソング
(ニコニコ動画)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm19676783
音楽をPCで作った事のない方には退屈な記事ですので、まずご了承を。
またSinger Song Writerの機能的な問題の指摘において、私のSinger Song Writerや初音ミクのソフトの使用における単純な誤解や根本的な知識不足によって記載の指摘に誤りがある場合、皆様からご教授頂けると大変に助かります。
なんせ一々マニュアルを読むのが大嫌いなので・・・。(勝手な言い分)
ジョブスだって云う通り、優れたものは感覚的に使えるものなのだ。
私は現在某企業の普通の会社員なのだが、80年代中期~90年代初頭はシンセサイザーのプログラマーというヤクザな稼業で生きていた。
当時はローランドのMC-4というアナログシーケンサーで音符の入力プログラムをしていたが、やがてNEC-PC88~PC98シリーズに対応したCome on Music社のシーケンスソフトが出現し、シーケンサーは格段に進歩した。その後、マックに対応したパフォーマーへと移行したが、私のンセサイザーのプログラマー人生は時代の流れの押されるようにこの辺りで一回終止符を打たれる。
あれから20年数年近く経ったある日、自分の現在の業務の中で曲を書いてプログラムして、音源を作ろうという企画が持ち上がる。殆ど予算もない中、昔とった杵柄で私がやることになり、周囲に相談して昔の私のやり方が通用するシーケンスソフトを選んでもらうとSinger Song Writerを推奨された。これは初音ミクとの相性の良さが理由でもあったが、昔のようなリアルタイムの演奏入力とステップ数値の編集が比較的容易に出来、尚且つHDDレコーディングが可能なものだった事に理由がある。
時代が随分と違うので、当初Singer Song Writerには四苦八苦する部分が多かった。それでもCome on Music社風のステップ入力もあり、これは助かった。また、MIDIデータを直接音声ファイルに変換できるというのはSinger Song Writerの利点だろう。Pro ToolsなどよりもPCへの負荷が少なく、今回書いた曲では音声トラックだけで50チャンネル程度を使用し、各チャンネルやグループフェーダーにイフェクターを絡ませたが、顕著な動作遅延は起きなかった。ただし、Pro Toolsなどと比べて音質やノイズ対策はプロ仕様とは決して言えない。それでもアマチュアにとってデスクトップPCでこれだけの作業が出来るソフトの存在は大きい。
Singer Song Writerは様々な機能を持っているために往時の私が使っていたようなシーケンスソフトとは概念や構造が違う。
同じ様な編集機能を異なったWINDOWが重複して持っているため、私には邪魔なWINDOWや機能が多かった。
音符の情報を編集するために全く別のWINDOWでも表示・編集できるというのは便利で効率的に見えるが、正直言って全く不要だ。
私個人としては1つの編集機能には1つのWINDOWが対応していた方が使いやすい。ステップ情報の編集可能なWINDOWが複数あっても利用価値がないからだ。
加えてこれは私の使い方の問題なので致し方ないのだが、作業効率を考えるとキーボードを主として利用した入力方法に集約した編集機能の方が使い易い。マウスを利用しないと使えなかったりする部分は私にとってイライラする感じがあった点だ。せめてステップ編集時に、挿入は“I”を押すことで挿入モードが利用できるなど、ショートカット機能を充実させてくれれば助かった。挿入の度のマウスで挿入モードを引き出して数値を入れるのは連続した作業を進める中では作業時間のロスとなる。
またHDD音声データを作った後、巻き戻しをしたり、早送りをした、録音したりする場合、一々マウスで指示作業しないといけないのも使い難い。こうした基本的な機能はキーボード上でコントロール出来た方が作業として効率が良いのだ。
これはSinger Song Writerの設計思想の問題なので改善可能かどうかが不明だが、一定程度MIDIでデータを作って、さらに追加でデータをダビングしたりしようすると、フレーズが小節単位で集約されない現象がある。
Singer
Song Writerでは1小節を1920ステップと設定している。四分音符が480だ。当然1920ステップを1小節と区切った方が音楽的だ。
しかしデータは不連続なものとして扱われているため、データの拍数と譜面上の演奏の拍数が一致しない事が多々あった。
例えば、譜面上では4小節目の頭に音を入れているのだが、データ上では3小節目の3拍目のような所にデータが存在し、しかし一連の連続した総ステップ数では辻褄が合っているというような表示になるという事だ。
この非音楽的なデータの生成にはちょっと困惑した。
音楽ソフトは音楽的でないと使い難いというのは基本中の基本だろう。
また演奏MIDIデータ内に多数の“Rest”という休符を表すデータが音符データに混在する場合があるのだが、MIDIデータをキーボードなどからリアルタイムで入力していると、このRestデータが不要に多くなり情報が煩雑になる。Restデータを非表示に出来る方法があれば知りたいが、これは何とかならないものかと思う。
また特定のトラックの特定の音符だけをカット・コピー出来る機能が見当たらない。ドラムなどを打ち込む時、当初打ち込む時は、BD,SN,TOMなどはまとめて1つのトラックに打ち込む。その後、アレンジを細かくやり始めた段階で楽器ごとにトラックを分割しようとするのだが、特定のトラックの特定の音符をカット出来る機能がないので最初から別々に打ち込むことになる。
鍵盤の出るページで特定のキーだけをチョイスできるのかとトライしたが、出来なかった。これは80年代のCome on Music社のソフトでも出来た事なので現代では対応してもらいたい機能だ。
ミキサーのフェーダー情報だが、グリッドを指定してからマウスでフェーダーの線を動かすのだが、これも使いずらい。グリッドを指定したら、音量は数値入力させてもらえる方法を併用出来た方がストレスが少ない。おまけに画面の大きさによってフェーダーの動く量が変わるので、同じ数値に合わせようとすると四苦八苦するハメになる。
またこれはバグなのかもしれないが、カーソルを移動している間にカーソルがフリーズして動かなくなる現象が多発。その後、音がLOOPして発信。その内PCもフリーズした。原因不明。
加えてMIDIデータ→音声ファイル化の過程で、MIDIデータにない音が録音されるケースも散見。また音声ファイルに原因不明の“ブーン”というノイズが乗るなど、プロのレコーディングスタジオで使用するには音響的な脆弱さがあるようだ。
シーケンス+HDDレコーダーは音楽制作ツールですから、マニュアルを全部読まなくても一定程度感覚的に使用できる設計が求められる。そういう意味では私の肌使用感覚とちょっと合わない部分があるが、これは慣れの問題もあるので合わせるしかないだろう。
(トラックネームが入れにくい。不要な情報が付加されるし、入らないテキストがある。トラック管理がしんどかった)
初音ミクのソフトとの連動(リワアイヤー機能)がついていて、当初はこの機能を使って作っていたが、動作環境が悪いので、現在は初音ミクのプログラムはSinger Song Writerと切り離して、テンポを同じにした状態でプログラムして、WAVEデータに変換したものを貼り付けて修正をかけている。ちょっと面倒だが、この方がサクサク動いて精神衛生上は良いと私は思っている。
初音ミクのソフトにおいては、動作アクションへのタイムラグが気になる。
プレイバックを押しても再生に時間がかかるし、PLAY、REWIND、FORWADをキーボード上で出来ないのもイライラする。しかしそれらを勘案しても初音ミクのソフトは、音楽制作の大衆化を加速させたという意味でも2000年代に入って生まれた画期的な発想のソフトだろう。
(Singer Song Writer 9.0改善要望のまとめ)
→ヴァージョン10に反映されているといいなあ。
◎MIDIトラック内の特定のキー情報だけを削除したり、他のトラックへ移動させたりできる機能が欲しい。
◎外部からのマイクや楽器の録音時、指定トラックを録音モードにしてもインジケーターに入力信号が入った様子が表示されないため、当初は入力が壊れているのか、もしくは接続の問題かと誤解した。
ためしに録音を実施してみると波形が出てくるので結果的には録音できると分かったが、普通、ミキサーには信号が入れば入力インジケーターに表示されるので、その程度は見ることが出来ないと信号レベルを調節出来ない。こういう所に気が利いていない。
◎表示方法にもう少し工夫をしてほしい。ミキサー機能において、MIDIとオーディオミキサーは分離できるようにして欲しい。(両方見たい人は選択制)
◎イフェクトのコンプレッサーのある日から壊れたままです。
◎質問メールを送っても返答が来た事がない。
◎何度かカスタマーに症状改善メールを出しているが、回答が返って来た事が一度もない。
◎原因不明のノイズが乗る。機器から隔離して使っても症状は同じ。
◎MIDI入力のLOOPモードの使い方を改善して欲しい。もっと感覚的に設定できる方法があるはず。
◎PLAY、REWIND、FORWAD、RECなどはマウス操作でなく、キーボード操作を取り入れるべき。
◎MIDIデータ内に多数の“Rest”の出現は邪魔。MIDIデータは最小限の音符情報が基本となっていて欲しい。
◎MIXを作る際、フェーダの上げ下げをマウスで行うのだが、グリッドを指定したら数値を入力出来るようにしてほしい。マウスの上げ下げで決めるのはストレスが溜まる。
◎トラック名を入力すると不要なテキスト情報が加えられる。もしくは指定範囲のテキストしか入らない。トラック管理が困難になるので、自由度を高めて欲しい。
◎Vstiの音源をセーブする時、シーケンスデータと連動したファイルとしてセーブできているのかどうかが全く肌感覚として認識出来ない。
◎Vstiの音源のオルガンなんですが、上段のキーボードを使用する方法が未だに不明。マウスでは演奏できるのだが、MIDIではコントロールできない。
そんな感じです。