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法務部の所作で分かる仕事の出来ない法務社員の有無 [徒然なるまま]

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他社と契約を交わしているとその会社の人材の力量や考え方が伝わる気がする。中にはこちらが心配な位にシンプルな契約書もあれば、シンプルだが、実用的で要点をしっかり押さえたものもあり勉強になる。また大した内容でもないのに信じられないような複線を張り巡らした契約書にも出会う。
ウチの法務部ではないのだが、過去に締結済みの契約書の案件部分だけを差し変えて同じ条件で締結する時に、意気揚々と修正を入れて悦に入る馬鹿法務社員も出会ったこともあった。
多分その人は、かなり仕事が暇だったのだろう。

前回と契約条件が同じで案件だけが変わり、過去に法務部が了とした契約書に改めて修正を入れる根拠を担当者に正すと案件が変わったからだと嘯く。
こういう法務部の担当者は、自分が関所に立っているだけじゃ満足できなくて、何かをやらないと気が済まないお馬鹿役人と同じ発想の連中なのだ。
エネルギーを使う場所を完全に履き違えていることに気がつかない。
私の田舎ではこういう連中を“利口バカ”と呼んでいる。

全く同じ契約条件で案件内容だけが違うなら、記述ミス等のチェックをすればそれで終わりだ。
WORDなら文書比較機能がついているので数分で終わる作業だ。それに不要な修正を入れたがる法務部の担当者は、自分の仕事の指紋を残さないと気が済まないのだろうが、こういう無駄な行為をする奴を社会では仕事の出来ない奴という。

また他社から来たひな形に全部赤い墨を入れて、ほとんどすべて書き換えて送り返すようなツワモノもいたが、こうしう失礼な事をしても、自分は正しい仕事をしているのだと勘違いしているような社会性のない人材がいたりする。こうなると法務部とか事業部とかの問題ではなく、社会人としての適性に疑問がある。ちなみにその人間は退社した。

会社にもよるが法務部は様々な案件を大量に処理している。そういう意味では、重要案件こそエネルギーを注ぐべきで、同じような契約案件は内容に齟齬のない限り事務的に済ませないと仕事の処理が追いつかない。
こういう輩は仕事の重要度に順番を付けられないのだろう。上司の教育程度が分かるというものだ。

 日本の契約書は特にアメリカと比べると薄くて内容もシンプルだ。アメリカ人には信じられないだろうが、日本の契約書には契約書で取り決めていない事項については誠心誠意相方で話し合い解決をするという精神条項がある。
契約書の趣旨からすると精神条項は無意味である。そういう事態を回避するために契約書を交わすからだ。
それ故アメリカの契約書は、守るべき条件を相方すべて書きつくすために分厚くなり、複線も多いため弁護士の介在が必要となる。
それはそれで彼らの社会では正しい方法なのだろうが、複雑な契約文面を延々と書かないと双方納得できない社会の在り方も考えものだ。

それ故、日本国内の企業や個人ではアメリカ型の契約書が馴染まない場合が多い。アメリカ型か日本型の善し悪しの是非はともかく、国内で利用する契約書は最低限度の合意事項の記載で概ね業務に支障がない。
もちろん全部の条件を仔細に書ける相手なら書きつくすのも良いと思う。
しかしそうした方法に馴染んでいない相手が多い日本の場合、どうしても曖昧さを残した契約書になる。そのため努力・精神条項が含まれるが、こうした条項の実効性は全くないのが本来の契約書の世界だ。海外との契約ではこうした曖昧さは命取りになる場合もあり、こうしたリスクヘッジこそは法務部の腕の見せ所なのだ。

法務部にいる人間は、曖昧さを嫌う。それは彼らの業務指向性だから致し方ない。そのため日常は使わない言葉を延々と繰り出す。
契約書は書き留めた文書だけが頼りの綱の世界であるため、リスクヘッジとして自分側に不利にならないよう文章を徹底的に極めておくのは絶対必要な事であることは疑いない。しかしその方法論に相手先への敵愾心を入れ込む輩が居る場合は論外だ。

しかし法務部にいる人間で仕事の出来ない奴に多いのは、簡単な内容をことさらに複雑に記載する奴、もしくは条項間に渡る複線を山ほど張って相手を煙に巻くような契約書を作る輩だ。
どうしても契約書をやっていると相手より有利になろうとする心理が働くため、条項間に言葉の地雷を仕掛けようとする奴がいる。
素直な文章や簡単な構造にすると法務社員としてバカにされそうだと勘違いしているのだろう。実は簡単で構造で効果的な文章によって契約書を構成する事ほど高い能力が必要なのだが、それに気がつかない人間が如何に多いか。
美的な契約書は論理的で理路整然としており、シンプルで効果的だ。
過度に複雑で、不要に解釈を困難にさせる要素を持ち込むのは、契約書の本来趣旨ではなかろう。
実はこの契約書は、本当こうやって読む内容なんですよ・・という契約書面は、実に人を馬鹿にした行為だと思われませんか?
それともそれを読み下せない方の能力不足を嘲笑いますか?

法律用語は、民法や刑法に限らず未だに明治以来の成立文章を採用しているため、法律関係者が繰り出す文章は、非日常的であっても良く、それを読み解けるのは一部の人間に限られているから価値があるのだという幻想がある。
契約書において、独特な表現が存在し、最低限の引用が必要であることは否定しないが、本来は、誤解釈を避けられる範囲で平易文であるべきだ。契約書はだいたいにおいて、日常の中に普通に存在するもので、弁護士や特定の職種の人種のために存在している物じゃない。

これは法律関係の文章を扱う法務部の人間の根底には、自分たちが他の人間に比べた頭脳構造について優位性があると勘違いしており、誤ったエリート意識が根底にあるのだろうとかと推察してしまう。
それ故自分がどれだけ難しい文章と構図を読み解けるかという点で競争し始めるため、簡単な事をことさらに複雑化することに快感を持ち、エネルギーを注ぐのだろう。

それ故、多数条項間に言葉の複線を張り巡らして、各条項間を繋いで読み解さないと1つの解釈に到達出来ないようなタイプの契約書を作ったりする輩が出て、仕舞いには自分の作品の如く誤解し始める。
こういう仕掛けを張り巡らせた契約書を作る法務部の人間は、自己満足と達成感で一杯になるだろう。しかしこういう人間に限って、数年後にその契約書を読んだ時に、自分で作った罠にさえも気がつかなくなってしまう輩なのだ。

取引上の業務として契約書を担当している現場の人間はかなり多いだろうが、取引先をワナに嵌めることを是とするような法務部担当者を持つ会社とは付き合わない方が無難だ。
契約書は相手を嵌めるために作るのが目的ではなく、同意事項をお互いに履行するための一定の根拠として文章化するのが目的だからだ。

自社の法務部で複雑な文章の罠を作って悦に入っている社員がいたら直ぐ配置変をすべきだろう。またそれを認めている上司がいたら、その人間も同罪だ。

こういう人材を法務部に抱えると、社内の法務部担当者相手に契約作業を進める上でもめる事が多くなる。上記のような誤った指向で契約書を作ろうとする人間がいるために他ならない。それは会社の業務を円滑に進める上でリスクになるし、無駄でもある。
また契約書の文言を自分の琴線に触れるまで変える馬鹿もさっさと配置転換した方がいい。

先ほども述べたが、契約書は文学作品じゃないのだ。

新しい取引先との間で他社と同様の内容の契約書を作る際、他社間で締結済みの契約書をひな型にして書き換えようとしたら大騒ぎした法務担当者がいた。
法務部担当者は新規の会社との間ではオリジナルの内容で作るべきだと主張するのである。また契約書の流用行為は守秘義務に違反するともいう。何となく一理はありそうだが本当にそうだろうか?

例えば、音楽業界なんかでは、アーティストのレコード契約や出版契約を締結する際、過去に他社間で締結したひな型を流用させ、金銭面と特記事項だけを書き換えることが多い。出版契約であれば業界での統一的なひな形すらある。
しかし考えてみればこれは当たり前なのだ。
契約趣旨や構造がほとんど同じだからだ。
そのためこの業界ではアーティスト別に一から新たな契約書を書く起こす奴なんていない。
こうした契約書で一番のポイントは金銭面や待遇面であり、それに付帯する特記事項だけが契約書の最大のポイントだ。
それ故他の部分が全く同じでも契約書上は特に問題ないし、流用は守秘義務にも違反しない。これを守秘義務違反と言ったら、不動産の賃貸契約なんて全部主義義務違反になってしまう。

騒ぎ出した法務担当者の気持ちは理解できないでもないが、実務面では全く無意味な反抗なのだ。そもそも守秘義務があるので、その契約書が他の契約書をひな型にして作った事なんぞは担当以外知りようがない。もちろん相手がひな型となった契約先の会社と同じような内容で別の案件の締結している可能性が排除できない場合は別だが、そうしたリスクを排除できれば締結済みの契約書をひな型にして書き換えることは実務上、何の問題もない。


日本では法廷闘争になった時、訴訟活動を担保出来る最低限度の記載があれば日本の契約書は概ね実効性を持つ。仔細微細の話になれば、いずれにしても法廷闘争になって決着を必要とするのは古今東西変わらない。昔、ソニーミュージックが鈴木あみとの間で法廷闘争になったが、あの論争部分を契約書当初に書いて果たして鈴木あみ側が理解した上でサインしたかどうかは怪しいものである。ソニーミュージックは業界内でもかなり厳しい契約書を作るので有名だがそれでもこうした事態は起こる時は起こるのだ。

国内での契約の際、リスクヘッジと称して聞いたこともないような言葉を延々と紡ぎ出す契約書面を作る輩がいるが、そもそもそこまでしなければ契約出来ないような相手とは最初から取引しない方がましだ。
それでも取引を必要とするならば、どんな契約書を作ろうが、トラブルは避けられない可能性があることを肝に銘じておくべきだろう。

本当は契約書なんて作らなくてもキチンと取引出来る相手が一番良いのだ。
結局日本は、取引相手との間で。延々とトラブル続きだった西洋文明の影響で仔細微細な記載のある契約書を残すという方法を編み出し、最初に決めたら書面通りに守るという彼らのやり方に毒され過ぎなだけなのだ。

契約書を交わしたって逃げちゃい奴は逃げちゃうし、法廷闘争まで争って得られる対価は、その過程で失うものより大きい場合だってある。

そのため契約書にかける時間とエネルギーが、何を目的にし、何を得ようとしているのは、もう少し俯瞰して見る必要があるのではなかろうか?

最後に一言。契約書には著作権がありません。

以上。


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