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そういえば昔、派遣労働者だったなあ、オレ [徒然なるまま]

 

1990年代前半。私は30代前半だった。
バブルの余波でCMの仕事が増えて給与も多少上がり、何となく順調に思えていた時期もあったが、それも2年程度で終息。
やがて仕事の数が激減し始める。
私がかつて生業にしていたのはシンセのプログラマーという仕事だった。ある意味で、この仕事も派遣労働者と云える。
この仕事はアレンジャーやミュージシャンから指名を受けてレコーディングスタジオで音色作成や音楽用のプログラムを書いてレコーディングに寄与する仕事だ。
しかしバブル崩壊後、私の実力のなさもおおいにあるのだが、仕事に先行きに限界を感じ、CM作家仕事や作・編曲仕事などに幅を広げ始めている時期でもあった。

私に限らず売れないミュージシャンの連中もバブルの後遺症に苛まれていた。
そんな中に出てきたのは通信カラオケバブルだった。当時のカラオケの主流はP社が開発したレーザーディスクを利用したカラオケだったが、MIDI(ミディ)という規格で音源に情報を送ってコントロールできる新しいタイプが出現し始めた。つまりMIDI規格で音楽情報を作る仕事が激増したのだ。
MIDI
と云うと一般には馴染みがないが、音符の情報を一定規格に基づいてPCが読めるように書き換える仕様をいう。
例えば、1小節の時間軸が「192」という数値に決めてあるので、四分音符は48と書くみたいな事だ。ここだけ読むと難しそうだが、既にこうした情報を音楽的な手法を利用して書き換えてくれる便利なソフトがあったので、ミュージシャンの連中やシンセのプログラマーには一般的だった。

 

通信カラオケバブルはそうした音楽業界の落ちこぼれ連中の食いぶちになった。
当時の心境を振り返えると、格下仕事(通信カラオケ業界の人には申し訳ないがそういう当時そういった気持ちがあったのは事実)をしてでも食いつながなければならない自分の不甲斐なさが未だに心の奥底に大きな染みを残している。
各社がMIDI音源を利用したカラオケシステムに移行する中、MIDI音源用のデータ制作者が不足し、バブル化し始める。
音楽業界で制作会社をやっているような所が次々と参入し、大手から受注を受け、人脈を駆使してMIDI音源用のデータ制作を始めたのだ。

フリーランスとは仕事がなければ無職同然だ。何もしなければ1円にもならない。従って私もスタジオ等のメイン業務がない時間にMIDI音源データ制作を始める。

私は個人的にいくつかの会社から受注していたのだが、だいたい1曲のデータを作って納品すると3-4万円程度だった。制作会社から連絡があると指定曲から選び、その音源のCDを借り、耳を使って楽曲に録音されている楽器演奏をMIDIデータに書き換えるというのが主な作業だ。譜面を渡されることはほとんどないので、コード進行、楽器構成、楽器演奏など耳を頼りに聞き分けてデータで再現するわけだ。早い連中だと1曲を2日程度で仕上げていたらしいが、こうした連中は演歌系を選んでいたらしい。演歌は生の弦楽器が入っていて複雑そうに思えるのだが、オーケストレーションには一定のパターンがあるので慣れた人なら解析が楽なのと、ダビングされている楽器がポップミュージックに比べて少ない事もあった。

いずれにしてもストレスの溜まる仕事だった。10曲程度やらないとサラリーマンの給与にもならない。しかし10曲も受注する枠がなかったのと、仮に10曲もやっていたら廃人になっていたかもしれない。私にはその位空しい業務だった。

ある日、友人からカラオケ業務をやっている会社で人を捜しているので会わないか?と連絡が来る。話を聞いてみると、パイオニアの子会社のQ社という会社が新しい通信カラオケシステムを作るため大量の音源が必要だが、そのデータを音楽的に確認する人間を募集しているという。
レコーディングの仕事がほとんど無くなっていた当時の私は比較的割のいい固定給にも魅了され受託する。そうなのだ。私は派遣社員になったのだ。
私がこの仕事を受託していたのは1994年の下期から19952月位までだったろう。

業務場所は乃木坂に近い赤坂にあるQ社内の仮設スタジオだ。防音されており、私と同じ会社から派遣されていた男性の二名で業務に対応。

実は私を含めた二名の派遣元の会社の社長は、過去に数曲のヒット曲を持った人物で、ギターリストでもある。いつもベルサーチを着込みポルシェに乗っていた。派手好きでそれを他人に強調したいようなタイプの人物だったのだろう。

彼は親分肌で面倒見の良い人物だった。ただ私は人間関係に距離を置きたがる人間だったので湿的な関係を求めがちの彼にとって付き合いづらい人間だったろうと思う。
もう一人の派遣男性は彼の舎弟のような関係だったので、彼を慕っており業務後毎日彼の事務所に行ってから帰宅していたようだが、私は週に1度か2度程度しか寄らないのでカワイイ奴に思われていなかったろう。
実を云うと私は社長の直下で働いていた男性のAが生理的に嫌いだったから行きたくなかっただけなのだが。

Q
社での仕事は本当に食うためだけだった。未来のキャリアに有用とか何とかは考える余裕もなかった。34歳まで自分なりに積み重ねてきたキャリアに陰りが出てきていた私は人生の路線変更を余儀なくされていたのだが、この時期は本当に辛い時代だった。
Q
社では毎日10時からスタジオでデータの検品をし、委託業者にコメントをしたり多少自分でデータを直したりして完成させたりする日々が続く。半年近くやっていて感動するほどよく出来ていたデータは数曲だった。ほとんどは素人に毛が生えた程度でも良い方で、中には音楽として成立していないデータも多かった。耳で聞き取って想像や技量でデータを構築するのは確かに難しい作業だが、能力にこれだけ差があるのは客観的に見ていても興味深かった。

1995
117日早朝、私は東芝EMIからCDとして発売される某歌手の楽曲のアレンジ仕事を築地のスタジオで終える。私のキャリアではメジャーレーベルからの発売されるCDのアレンジ仕事はこれが最後となっている。
徹夜でレコーディングを終え、朝日を浴びながらの帰宅の途上、NHKのラジオから神戸地方で地震があったと伝えていた。そう、阪神淡路大震災だ。
当時のラジオの口調は大地震のような感じに受け取れなかった。私は自宅に帰ってシャワーを浴びてQ社に出勤するまでの数時間の仮眠をする。

寝ていた私を起こしたのは自宅の電話だ。受話器を取ると相手は英語で捲し立てている。そう、私のかつての同居人がロスから電話をしてきたのだった。

“高速道路がひっくり返っている、東京は大丈夫か?”

何を云っているのか理解できず、テレビをつけてみると、後に代表的な映像となる高速道路倒壊の状況が目に飛び込んで来た。
私が大震災を実感したのはこの時だった。
その日はQ社に行っても仕事に全く身が入らなかった。道の反対側の電気屋に置かれているテレビを見ると犠牲者の数が分単位で増加している。その日の夕方には公式死者数のが3,000人を超えていた。この日はそういう日だった。

Q
社は当面の楽曲を15,000曲程度と設定していたが、検品の質が低いために作業が遅延して目標に届かない恐れが出て来た。そして1月中旬以降からは検品精度を落としても楽曲数の達成をしたいという通達があり、それに従う。そのため初期に作られた楽曲のかなりの数は出来としは素人作業がそのまま流通している。

1995
2月末でQ社の作業は終わったと記憶している。その後ベルサーチ氏からもらうカラオケ関係の仕事をしていたのだが、納品データの出来で男性のAとの間で意見が合わず、疎遠になり始めていた。それでも面倒見の良いベルサーチ氏は私に対して自身が計画しているレコーディングスタジオのシンセプログラマーを担ってほしいなどの別の案を提示してくれていた。
結果的に私は第二の派遣業務を請け負う事になった。YAMAHA浜松工場に行ってシンセ開発部で行っている新作機器のバグ出しだ。かつての同僚もここで仕事をしていた記憶がある。
私は東京に住んでいるので平日の5日間、浜松のホテル住まいをし、YAMAHA浜松工場に通うという生活を始めた。交通費・宿泊費は別途出る。
我ながら落ちる所まで落ちた感があり心の奥底では悲哀が漂っていた。ドサ廻りの演歌歌手ってこんな感じかもしれない。
工場の近所のワシントンホテルからYAMAHA浜松工場に830分までに行き、17時まで決められた部屋に12人ほどが押し込められ、1日中、様々な方法でシンセを操作しバグを出すことばかりやっていた。ここに来ていた連中はそれぞれに事情を抱えていた。それぞれが全て腹の中を晒していた訳ではないが、それぞれに痛みを持つ人間ばかりに思えた。
ある意味夢破れた系の落ち零れの集団の中に私は仲間入りしていた。

人生で工場勤務は初めてだった。12時になるとサイレンがなり、工場内の食堂に溢れんばかりの人が集まり同じような食事をする。同じ制服を着ている集団は圧倒的だが異様とも云えた。そして17時にサイレンが鳴り全員退社。
私はチャップリン映画の“モダン・タイムス”を思い出した。物作りの現場の殺伐とした一面を見た気がして私は随分と遠い世界に来てしまったことに茫然としていた。

17
時を過ぎると時間通りに退社。ホテルの途中にある弁当屋で弁当を買って帰って部屋でテレビを見ながら夕食というのが日常化した。
そんな自分の未来に漠然とした不安があったのは云うまでもない。
ある日、オリックスと西武戦がホテルのテレビで放映されていた。しばらくして何気なくホテルのロビーに降りるとそこは試合直後のオリックスの選手で一杯だった。私は部屋に戻るためエレベーターに乗ったのだが、そこに選手が入ってきた。その中にイチロー選手がいた。華奢に見えたが紛れもなくスターの貫録だった。

当時の1か月のギャラは40万円だった。悪くなかった。
しかし食うためだけにやっていたとは言え、余りにも遣り甲斐のない仕事だったこともありたった2カ月やってこの派遣業務を断った。
ベルサーチ氏から今後の仕事は直接YAMAHAと契約して欲しいと云われた事も辞めるキッカケの1つだった。

ベルサーチ氏も私も互いにそろそろという時期だったということだ。

そのため5月・6月と仕事が全く無かった。35歳にもなってこんなザマかよと本当に辛い時期だった。自分の人生の積み上げの失敗を呪ったものだ。
6
月は遂にやることがなくてお歳暮のバイトを始めた。1か月やって20万円にもならなかった。
しかし宅配の業務の大変さと凄さを実感できて彼らへの見る目が変わった。今でも宅配の方々には尊敬の念で荷物を受け取っている。

1995
8月、私は人脈のお陰で某大手芸能プロダクションにマネージャー業務をするために入社する。契約社員だったが、それまでの知識、経験を生かせる場所だった。私は安堵感に満たされその後4年をこの会社で過ごす。

私は現在正社員として全く違う分野である某社に勤務している。40歳を過ぎて正社員になり役職も就いた自分に驚いてもいる。
現在の自分の部署に派遣社員も抱えている。しかし私個人は派遣という制度が大嫌いだ。自分の経験を踏まえても、本来派遣待遇で良いという人は少数派だろう。
正社員の自分と比較しても待遇は天と地ほど違う。ボーナス、社会保障、健康保険など言い出したら切りがない。正社員が身分化していると指摘する人がいるが、ある意味それは正しいと感じている。

派遣社員制度は企業に都合がいい。人的コスト削減に最大の効果がある。その効果の反対側にいるのは派遣社員たちだ。
企業が労働者をコストと考えているだろうが、本来は誤りだ。そういう側面が無いとは云わないが本来的な社会思想としては誤りだ。
そういう事を是とする社会構造はいずれツケを払わされる。
効率の先にある非効率を無視すれば、想像を超える不利益に遭遇するだろう。

私は自分自身が派遣労働者を経験し、また雇用する立場になり、世の中の歪に胸が痛くなり、また焦燥感に苛まれるのだ。


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