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NHKスペシャル 終の住処はどこに~老人漂流社会を見て思う事 [徒然なるまま]

NHKスペシャル 終の住処はどこに~老人漂流社会を見て思う事

NHKスペシャルはいつも秀逸である。NHK組織に様々な問題が内在していてもNスペの質が維持出来ている限り大丈夫だろうと思っているくらいだ。

Nスペは過去にも様々な問題を先取りして提示してくれた。ワーキングポアの存在を知ったのもこの番組だった。
復興予算を恣意的に配分していた官僚組織に刃を剥いたのもこの番組だった。国家から予算を認可されている放送局としてこうした取り組みはギリギリの線だろう。

 さて、老人漂流社会は痺れる番組だった。自分が50歳を超えており、高齢者に近いという感覚値もあったろう。あの映像に見えている現実は未来の私かもしれないのだと思うと、実際背筋が凍る思いだった。
現在でも高齢者が3,000万人を超え、この先も一定程度増え続け、社会保障への負担が国家予算に重くのしかかる時代の中で、私は自分の高齢者時代の生活をどのように設計すべきかを鋭く突き付けられた思いがした。

高齢者時代を人間らしく生き抜く最低限度の条件を矮小化して言えば、金、健康、人(家族・近親者)ということになるだろうか?

場所は金、もしくは人によって担保が可能だ。健康を失い、金がなく、人もなくなれば、社会制度だけが最後の砦となるはずだ。
しかし社会制度はそう容易く手を貸してくれる状況に無いというのが番組から受けるメッセージだ。痴呆が進み、自助努力で生きる事が出来ない人間を社会制度が助けられないなら、死を選べということになる。しかしもはや自分で死ぬ事さえ出来ないだろう。

私は、40歳を超えた時点で老後の人生にどの程度金がかかりそうかを試算したことがある。エクセルを使って非常大雑把な未来像を描いてみたのだ。

60歳を過ぎて、仮に男子の平均年齢まで生きると最低限度でも5,000万円程度以上の現金(流動資産)が必要だと分かる。
長きに渡って年金を積み立てた人はこの金額かそれに近い額を年金等で受け取れるはずだ。しかし今後の財政状況ではそれもかなり不透明だろう。

ちなみに私の父は、地道に地方公務員をやり続け、高度経済成長下で民間が父の数倍の収入を謳歌する中でも何とか自制心を保って地味に働いていた。
現在父は90歳だが、55歳定年時代に年金を貰い始め、これまでの受給総額は母の分を含めて約1億円を超えているはずだ。父親世代で一定の年金をずっと支払ってきた人々は皆さん同じような環境下にいるだろう。
父が現役時代に納めていた年金総額がどの程度か分からないが貨幣価値を勘案しても2,000万円以下だったろう。つまり、父(+母)の年金利回り率は500%ということなのだ。それでも母と二人で古くなった家で、どうにか世間並みと言える程度の困らない生活しかしておらず、とても裕福といえる環境ではない。田舎の普通の老夫婦という生活だ。
それでも自分の事を自分で出来る2人は高齢者の中でもまだ幸せな方なのだろう。

 この世代は青春時代を戦争によって破壊された世代で、多額の年金は国家の罪滅ぼしという側面もあるが、国家財政的にみると、私の両親の世代が受け取る年金額は相当な負担額だと言えそうだ。
それでも我が家は中流の中のような家庭だ。一戸建てを持ってはいるが、周囲と比べても特別に豪勢でもなく、既に築45
年を超え、両親の死と共に家屋の存続は難しいと思っている。土地も大した価値もないので、資産としては勘定にも入らない。
両親の貯蓄も大してある訳じゃないので将来、家屋の取り壊しの時期が来た時の出費は今から頭痛の種である。

私の実家は現行の年金制度による恩恵を受けているが、現在の彼らの生活レベルが過度の財政負担と表裏一体だとすれば、今後の高齢者の殆どは中流の中の生活レベルすらも維持するのがかなり厳しいだろうと想像できる。

老人漂流社会に出てくる老人は、普通の労働者だった人間だ。妻を持ち、まじめに働き、普通に生活をしてきた人々だ。
それがあるキッカケによって自分自身の生活を維持できない日が来てしまう。身寄りもなく、金もなく、住む所もなく、社会と他人に依存しなければ人生を支えることさえ出来なくなってしまう。

番組の解説に「歳を取る事は罪なのか?」とあったが、本当にそう感じざるを得ない時代になったな・・と思った。会社などでは年齢を重ねて役職が付かないままで居ると罪な雰囲気が出てくるが、自分ではどうにもならないことでプレッシャーをかけられるのは気持ちの良いものではない。

くしくも麻生副総理が、「さっさと死ねるように」発言をマスコミが報道し、高齢者の高額医療について言及してるため論議を呼ぶだろう。
彼の言い草はちょっと乱暴でかなりの非難と誤解を受けるだろうが、実は言わんとしているポイントは喚起すべき問題である。
マスコミは単純な言葉狩りをして状況や前後関係を報道しないので、発言趣旨を歪曲する傾向があるため相当な注意が必要だが、麻生副総理の言わんとしている問題は、必ず考えなくてはならない事なのだ。

ただ、あのレベルの地位の人間は、こういった微妙な問題に提起をする場合、言い方を考える必要があるが、どうも麻生という人間は育ちのせいか、言葉の選択に鈍感な人物のようだ。井沢元彦氏のように謙虚だがキチンと発言するテクニックを学んだ方が良いだろう。

彼の発言は結局命と金の問題を天秤にかけるのか?という反論や攻撃をされるのだろうが、残念ではあるが命と金の問題は密接に連携しており絶対に否定できない。
社会保障の負担に限界になり始めているのは事実で、継続できる方策を早急に考えねばならないのは誰にとっても明らかだ。

命を金と引き替えにして、命をないがしろにしろとは到底言えないし、個別ケースで対応の違う問題が数多くある点は重々承知しているのだが、私を含む高齢者予備軍や高齢者が、自分の寿命や資金能力を超えて社会に高負担を押しつける形で生きながらえる事が本来的に命を大事にしているのか?という疑問は常々私の中にある。
Nスペでは、男性高齢者に延命措置の希望を問う場面があり、彼は延命を望んだが、私は同じ立場なら逆を選択するだろう。これほどに個人によって考え方が180度違う問題なのだ。

正直言って、生きるとはなんだろう?という哲学的な部分にまで踏み込む問題は、本来議論に馴染まない。個人の宗教観や価値観や人生観は普遍的でなく、実は極めて個人的な問題だからだ。
私個人はベッドに長期間寝た切りになって生き続ける事を全く良しとはしないが、先ほどの例を上げるまでもなく反対の考えだって相当数あるだろう。

仮にこうした問題において、個人の選択をキチンと尊重するというのであれば、究極的な言い方をすれば、まず個人の力でそれを実現すべきとも言える。そして社会が関わるのはそれ以後ということになるだろう。麻生副総理を擁護するつもりは全くないが、彼の言わんとしている点はこの辺りにあったのだろうと推察している。
しかし、いずれの場合でも尊厳のある最期となるような社会制度は存在していて欲しい。
現在は社会に役に殆ど立たないからと言って国家が高齢者の生存や最期のあり方を放置したらもはや国家としてあり得ないだろうし、そんな国家を愛せと言っても若い人だって困るだろう。
しかしこの問題は全くの綺麗事では語れないという点は強調しておきたい。


私は以前から安楽死を個人が選択できる法制化をする時代が来ると予言している人間だ。医療技術の発達で寿命を超える生命を獲得し、自分自身でその行く末を管理できない高齢者を作りだしてしまった以上、自然に反するとは言え、正式な安楽死を考えざるを得ないだろう。

もちろん根幹的には安楽死を是としない。私だって自然に死んで逝きたい。論議も多い問題だと知ってもいる。宗教的観点が絡めば落とし所が全くないとも考えている。
しかし未来の社会構造が、高齢者の生存を自己責任だけでは維持できなくなり、国家も担保出来ないほどに社会保障の負担感が増してくるとすれば、尊厳ある人生の最期を自分自身が選択できる切り札を高齢者に持たせるというのは、尊厳ある最期を選択したいと望む人間には必要であり、そういう選択が出来る時代がやがては来るだろうと考えている。


自分の尊厳を維持しながらキチンと死ねる事が「特別な時代」になり始めているんだという感覚は恐怖に近い。

高齢者の死に方も格差社会となる時代が差し迫っているとも言えるのだ。

少子化もあって周囲に葬式を上げてもらって死後の始末をしてもらえる人がマイノリティーになる時代だって考えられそうだ。

今の20-30代の若者が自分たちの高齢者時代を差し迫った視点で感じる事は殆ど難しい。しかし彼らが高齢者と呼ばれる時代が来る時には、状況は更にひっ迫したものになっているだろう。
現在の若者が高齢者になるころ、生活を支えるのは自律的な資産だけになるだろう。インフレが進めば年金は自分が積み立てたものより遥かに価値を下げて手元に戻ってくる。そうなると私の若い時代よりも貯蓄や資産運用は高齢時の生活維持に必須条件となる。

日本の高齢化社会を単純な姥捨て山状態で解決しないためには社会の相当なる知恵が必要だ。


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